2026年2月28日土曜日

たけくらべ


 2月も今日でおしまいということで、ウチももう大人にならんとあかんねんな、明日からは奉公に行くんやさかいにな、と思い、年末から剃らずに育てていた体毛を、一気に剃った。
 この2ヶ月間、本当に久々に、体毛を剃らないということをして、もうすっかり在りし日のことなど忘れてしまっていたので、どれほどの毛が生えるのかと愉しみにしていたのだが(このブログでも何度も言及した)、前回に報告した通り、1メートル先にある鏡に映った自分の姿は、ぜんぜんそこまでじゃなく、2メートル離れた人から見たら生えていないも同然という程度の生え方で、かなり拍子抜けしたのだった。
 それでも自分の理念として剃らないわけにはいかないので剃ったわけだが、見た目はそれほど生えている印象にならなかったわりに、剃ろうとしたらそれはそれで、カミソリの刃にはすぐに毛が溜まる感じで、わりと難儀した。毛というのはほとほと曲者というか、他者にとっての存在感と、自己にとっての存在感が、あまりにもかけ離れているものだな、と思った。
 もっともそういう自他による認識の錯誤というのは、人それぞれ、その人が特に気にする部分において、往々にして発生するものなのだろうとも思う。ファルマンは一重まぶたであるということに猛烈なコンプレックスを持って生きていて、人を見たとき、すぐに「一重だ」「二重だ」と言う。そして勝手にこの話を展開させたあと、必ずこうも言う。「ちなみに私は実は一重ではなく奥二重なのだ」と。それに対し、僕はもはや「ふうん」と相槌を打つこともない。もはや三重と言ってもいいほど天然のくっきり二重である僕は、人のまぶたを気にしたりしない。そういうものなのだと思う。
 ともかく、不要な部分の毛がなくなって、個人的にはとてもすっきりした。やっぱりこのほうがいい。ウチはもう、昨日までの無邪気でおきゃんなウチとは違うんやさかいにな……。

2026年2月27日金曜日

MAXとは


 MAXのファンを自認している。他認はされない。真正面からMAXのことが大好きというわけではないから、なかなか認めてもらえない。でもMAXだ。MAXを真正面から大好きな人がいるはずがないだろう。その前提がまずあって、そしてファンを自認している。
 たとえばサブスクの音楽サービスに、「お気に入りの曲」というプレイリストがある。聴いていて、いいなと思った曲は、ボタンをひとつ押せば、勝手にここに入れてくれる。この中にMAXの楽曲ももちろん入っている。だけど再生したことはない。「お気に入りの曲」プレイリストをランダム再生していると、なにしろお気に入りの曲ばかりが流れるので心地いいのだが、たまにMAXの曲がかかりはじめると、すぐに飛ばす。なぜなら、僕は別にMAXの曲なんか聴きたくないのだ。ただMAXがお気に入りの中にいてほしい。だから入れている。MAXの正しい味わい方というのは、つまりそういうことだと思う。
 そんな僕の最新のMAXファン活動は、対話型生成AIに頼んで「MAXクイズ」を出してもらう、というものだ。

 第1問 NANA はブログで、自身の性格について「実は○○体質」と語ったことがある。

   A. 超心配性
   B. 人見知り
   C. 朝が弱い
   D. 泣き虫

 みたいなクイズ。こういうのを延々と出してもらう。
 ただし僕は、自分のMAX知識を試そうとしているわけではないし、ましてや増やそうなどとはもちろん考えていない。(こちらが求めるものだから)次々に繰り出されるMAXクイズに、僕はいちども回答したことはないし、正解を求めたこともない。
 MAXって、そういうことじゃないんだ。MAXって、好きになればなるほど、MAXにぜんぜん興味がなくなる。だから答えなんか知らなくていい。答える気がまるで起きないMAXクイズが、ひたすら積み重なっていけば、それでいい。それがいい。その感じこそが、MAXの魅力の真骨頂だと思う。
 MAXってもしかしたら、道なのかもしれない。千利休の言葉に、「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点ててのむばかりなる事と知るべし」というのがある。MAXもそう。MAXも、ただ湯をわかして茶を点てて飲むだけのことなんだよ。たぶん千利休がいま生きていたら、MAXのファンだったんじゃないかな、と思う。その場合、千利休じゃなくて、最大利休になっていたかもしれないね。しれなくないね。

2026年2月26日木曜日

Bloggerの前に無力


 もう問題がなくなって、前の記事も修正してしまったので、ピンと来ない話になってしまうが、昨日はどういう事情かBloggerに不具合があり、文章をきちんと編集できず、さらには投稿した記事もデザインが崩れ、さんざんだった。ざっと2億人くらいの人が困惑したに違いない。田舎の電車が、シカに衝突したみたいな理由で運休になると、実際それはニュースにもならないのだが、たまによほど他に伝えることがなかったのかニュースになったとき、「4時間あまりにわたり全線運休となり、のべ80人の足に影響が出ました」などとキャスターが言うので、聞き間違いかとびっくりする。よ、4時間あまりの全線運休で、は、80人? と。僕のブログも、まあそんな感じだと思う。丸一日くらい、ブログのデザインは崩壊していたが、それをどれほどの人間が目にしただろう。森の奥で、誰にも見られず、聞かれず、木が倒れる。そんな風景が思い浮かぶ。
 Bloggerでこんなことになったのは初めてのことで、なんだかすごくびっくりした。そして、ものすごい恐怖を感じた。当たり前の日常に安心しきっていて、いざというときの備えをまるでしていないということに気付いたのである。これがXとかであれば、不具合があれば自分が言わなくても自分以外の多数の人間が大騒ぎしてくれるので問題ないのだ。しかしBloggerは違う。Bloggerをやっている人間を、僕は僕以外に知らない(ファルマンが一時期やっていたが、今はもうやめてしまっている)。Bloggerには、他のブログサービスにあるような、すべての部屋と繋がっている大広間みたいなものがなくて、Bloggerユーザー同士が憩うということがない。部屋のひとつひとつは分厚い壁で仕切られていて、窓もないし、隣室の気配は一切感じられない。たぶん隣室はあるんだろうと思っているが、実証する術はない。なので、もしかしたらないかもしれない。分厚い壁で仕切られた集合住宅だと思っていたら、実は宇宙空間に漂うひとりぽっちのシェルターという可能性もある。そこで不具合が起る。困る。困るが、困ったことを誰かと共有することはできないし、知恵を出し合うこともできない。システムが壊れたら、あとはもう静かに潰えるしかないのだ。どれほど強く壁を叩いても、隣人の耳には届かない。そもそも隣人など存在しないかもしれない。Bloggerには実際、そういう気配がある。だってもう絶対に、Googleがブログになんて力を入れているはずがないのだ。あるときGoogleの人さし指が、なんの宣言もなく、ボタンを押せば、われわれは存在のスイッチを切られ、ただ消え去るしかない。おそろしい。そんなことを思った今回の出来事だった。MAXの話はまた後日。MAXの話をしようとしたところでこういうことになるところが、さすがはMAXだなあと思う。

2026年2月25日水曜日

M!LKとMAX


 去年ファルマンが嵌まったものは津田健次郎以外にもうひとつある。いま飛ぶ鳥を落とす勢いと言っていい、M!LKである。去年そのふたつに嵌まるのって、ずいぶんベタなことだと思う。ちなみにM!LKに最初にはまったのはピイガで、それでピイガが動画などを観ているのを横目で見て、ファルマンも次第にのめり込んでいったようである。そしてたぶん、今ではピイガよりもファルマンのほうが入れ込んでいる。M!LKは現在ツアー中だそうで、ファルマンは頻りにピイガに向かい、チケットの抽選に申し込んだらどうかと焚き付けるのだが、ピイガはぜんぜん乗ってこない。昨夏のちびまる子ちゃんランドで明らかになったこととして、ピイガは猛烈な同担拒否タイプなので、ライブになど行くはずがないのだ。それがファルマンには信じられないらしいが、僕には気持ちがとてもよく解る。どうやら娘はふたりとも、そのあたりは僕の血を受け継いだようで、ファルマンのようなファン気質は持ち合わせていないらしい。「周りのファンなんて関係ないよ。好きな人と同じ空間で同じ空気を吸えればそれでいいんだよ」とファルマンは言う。ちょっとなにを言っているのかよく分からない。でもいまどきの推し活文化を見ていると、もしかするとファルマンのような人のほうが多数派なのかもしれない。この手の話になると、僕としてはどうしたってMAXの名前を出さないわけにはいかないのだけど、僕がMAXのファンになることを志して生きることにしたのは2019年の9月のことなので、かれこれもうファン歴6年半ということになる。去年M!LKに嵌まったにわかと一緒にされては困る。最近、僕のMAX道は新しい境地へと至りつつあり、明日はそれについて語ろうと思う。今日はBloggerの調子がおかしく、なぜか改行ができない。そんなことあるのか。天下のGoogleが、ブログの改行をできなくなるなんてことが、あるのか。

2026年2月24日火曜日

おすすめのドラマと歌


 昨年末から大事に観ていた「不毛地帯」を、とうとう観終えてしまった。寂しい。
 なので、なにか新しいドラマを見つけなければならない。読者のみなさん、おすすめがあったらぜひ紹介してくださいね! 読者もいないし、そして人から奨められたものを僕は好きにならないが、マイナスかけるマイナスはプラスなので、逆にそんなことを言ってみた。
 既に完結したものを一気にダウンロード、というのとは違うが、今期やっているドラマでは、「ラムネモンキー」を愉しく観ている。普通であれば出会わなかっただろうドラマだが、ファルマンが去年から津田健次郎にハマっており、それでこのドラマに注目していたので、僕もつられて観ることにした次第である。そして蓋を開けてみたら、話の内容が僕好みで、それはすなわちファルマンの好みではなく、ファルマンは3話くらいで離脱し、今は僕だけが毎週とても愉しんで観ている。
 ドラマの内容も非常にいいのだが、この主題歌がまた、ものすごくいいのだ。Bialystocksという人たちの「Everyday」という曲で、本当に久しぶりに音楽というものに感動したような気がする。歌詞の言い回しがなんか変で、まるで抽象画のような歌だな、などと思う。なにか深いことを言っているようで、実はぜんぜん意味なんてないかもしれず、だとしたら「ロコロコのうた」みたいで最高だな、と思う。唄えと言われたから唄うけど、実は別に言葉で伝えたいことなんてなんにもないんだよな、という、なんかそういう高潔さを感じる。最近よく聴いている。いない読者のみなさんもぜひ聴いてみてください。

2026年2月23日月曜日

泳ぎたい!


 「ゆっくり長く泳ぎたい!」という水泳の教本シリーズがあって、前に何冊か読んだのだが、最近その完全版が出ているのを見つけ、久々に読んだ。
 読んだ結果、蒙が啓かれたというか、前にも読んだので教えは理解していたはずなのに、いつの間にか見失っていた理念を思い出したのだった。
 本の内容はタイトルが示す通り、どうすれば楽にたっぷり泳げるかを追求するもので、それは自分の求めるプール習慣としても理想のものであったはずなのに、この本から遠ざかっていた去年の後半あたり、僕はこれとは正反対の方向性で泳いでいたように思う。すなわち、筋トレの代替になるように、わざと激しく、体力を使うような泳ぎ方をしていた。それはたぶん典型的な二兎を追っているやつで、泳ぐ愉しみも失われるし、そして別に筋トレにもなっていなかったのだろうと思う。水泳に筋トレを求めてはいけない。筋トレは陸でやればいい。水泳では有酸素運動を目的に、落ち着いてゆったりと体を動かすべきだったのだ。
 もうすぐプールが再開するタイミングでこの本を読んだのは本当によかった。紹介されていたテクニックを、早く実践したくてたまらない。いっそのこと3連休ということもあり、おろち湯ったり館に行くべきなのではないかとさえ思ったが、寸でのところで思いとどまった。往復で1時間あまりの運転は、おろち湯ったり館に行くための労力として、常に少しだけ重たい。
 湯ったり館行きを思いとどまり、3連休最終日の今日はひたすら水着を作り、そして肩の炎症もだいぶ治まったので、筋トレをしていた。そして昨日わざわざ、今日の僕へのムチャブリをしたのに、結局Instagramは始めなかった。Instagram始める始める詐欺。もうすっぱり諦めればいいのに。

2026年2月22日日曜日

3連休を堪能する意欲


 3連休を堪能している。堪能しているとはどういうことかと言えば、時間を贅沢に使っているということだ。普段の平日、労働から帰って、晩ごはんや風呂を済ませ、そして布団に入るまでのわずかな時間で、あくせくと、縫い物をしたり、筋トレをしたり、日記を書いたり、それはせせこましく活動するのに対し、3連休ともなると、ともすれば1日で、そんな平日5日分ほどの時間が与えられているわけで、じゃあそこで一気に普段の5倍の活動ができるか、と言えばそんなことはない。時間はあったらあったなりに、漫然とした感じで空費してしまう。それはそう。でもそれでいい。それがいいんだ。それこそが休日を堪能するということなのではないかと思う。
 あとせっかくの連休だというのに、初日の午前中ににわかに肩を痛め、筋トレを休まざるを得ないというアクシデントも発生している。この半月ほど、自重トレに限界を感じ、ダンベルを中心に胸を鍛えていて、わりといい波に乗っている感じがあり、この週末も存分に胸をいじめようと思っていたのに、とても残念だ。
 水着作りは、昨日の日記に書いたとおり、ロゴに関してわりと進展があり、そして今日は裁断をそれなりにやって、わりと順調に作業ができている。それと年末あたりから作っていた品々を、今年に入ってようやく初めて、Yahoo!フリマに出品するということもした。極北ボックスをようやく販売開始することができた。なので販売ページのリンクを貼っておこう。誰も読んでいないブログから客が流れてくるはずはないのだけれども。 
 ちなみにだが、ロゴ入りのものはまだ出品していない。
 明日で3連休もおしまいか。まあそれはいい。堪能できているので。ただし3連休の成果として、せっかくなのでなにか普段よりも大掛かりなことをしたいという意欲があり、とうとうInstagramを本格始動させようかな、と考えている。

2026年2月21日土曜日

ブランドロゴとのやりがいのある日々


 人類がまだあまり悩んでいないことで悩んでいる。
 水着に貼り付ける、NOBITATTLEのロゴマークがあるじゃないですか。


 前にもアップした、これですね。
 これに関し、ロゴのデザインとか、サイズとか、とにかくいろいろ試行錯誤しているのだけど、先日ふと思ったのは、場所はここでいいのか? という問題で、そもそもなんで最初こうしたのかと言えば、特に深い意味はなく、ロゴって大抵このあたりだよね、水着に上前も下前もないけど、こういうのはなんとなく上前(自分にとって左側)だよね、くらいの発想だった。実際ロゴのある水着は、大抵この位置にロゴが置かれている。
 でもNOBITATTLEは違うんじゃないの、NOBITATTLEは、NOBITATTLEならではの、普通とは違うことができるんじゃないの、もとい、するべきなんじゃないの、という思いが頭をもたげてきて、僕はすぐに試作に取り掛かったのだった。
 どういうことか。こういうことである。


 NOBITATTLEと言えばアンサーソング。女の子のおっぱいに対するアンサーソングとしての膨らみの部分。こここそがNOBITATTLEのイデア的な部分なのだから、その象徴であるロゴはここに入るべきなのではないか。そう考えた。
 ちなみにだが、当初の位置のロゴプリントは、水着が完成してから最後に貼り付けており、これだと失敗は絶対に許されなかった(仕事ではないので誰かに怒られるわけではないが、ものすごく落ち込む)のに対し、画像のように、縫い合わせる前のアンサーソングのパーツであれば、たとえ失敗しても被害は少ないので、そういう意味でもとても合理的ではないかと思った。
 というわけで、これを水着に仕立てたのがこちらである。


 作っている途中で気付いた。位置が微妙だと。
 亀頭側と鼠径部側、どちらの縫い代にも掛からぬよう、かつ突き出た部分に最大限に張り出して目立つよう、という狙いでプリントを貼り付けたのに、いざ完成形になってみたら、なんだかズレている感じになってしまった。


 まあそのための試作であるから、この1枚がズレた感じになってしまったのは別にいい。
 問題は、解決策が浮かばない点である。アンサーソングの立体性に寄り添う、先端の張り出しを最大限に活かした位置取りをしたいのに、このマークとロゴというのは、マークの上の横棒と、その下にあるロゴが、ほぼ同じ横幅で、中央部分がくびれた、言わばひょうたん型になっており、ひょうたん型のものを、逆に中央部分が突出した台紙に配置しようとしているのだからどだい無理がある。


 ChatGPTに頼んで、ロゴプリントのない水着と、ロゴだけの画像をそれぞれ生成してもらい(こういうことをさらっとやってくれるから助かる)、それを編集ソフトで、ああでもないこうでもないと配置を試したが、やはりどうしたってうまいこといかない。
 いったいどうすればいいのか。どうすればアンサーソングにNOBITATTLEのロゴはいい具合に嵌まるのかという難題に、人類は初めて立ち向かおうとしている。
 これに対し、人類史上一の賢者と言われる僕の出した結論はこうである。


 なんだ、ずいぶん大仰なことを言っておいて、マークは諦め、ロゴを大きめにして貼っただけかい、まあもちろんこれはこれでかっこいいけど、わりと置きにいった結論だな、と思うかもしれない。
 そうではない。
 どういうことか。
 こうである。


 そうなのだ。アンサーソングは、ふたつあるのだ。そしてロゴは必ず上前になければいけないわけではない。製法上、こちら側のアンサーソングには折り伏せ縫いのダブルステッチが入るので、右端にも左端にも2cmほどの余白がなければならず、どうしてもそこまで大きくは入れられないのだけど、まあまあ、突き出している部分に、マークの突き出している部分が配置できたのではないかと思う。
 これを仕立てると、こうなる(我ながら本当に水着をちゃちゃっと作ることだと思う)。


 こうなって、


 こうなって、


 要するにこうなる。
 おもろい! すごくいい! すごくいい結論に至った!
 やっぱりNOBITATTLE水着の最大の特徴にして特長であるアンサーソング部分、こここそがロゴが入るにふさわしい場所であったのだ。なにしろ普通の水着ならばこんなことは不可能なのだ。立体設計のNOBITATTLEであればこそ、ここには横から見たときに平面、すなわちキャンバスが現出する。そしてそのキャンバスに、ブランドロゴが描かれる。すばらしい帰結である。
 いやー、ロゴシリーズももうけっこう点数を作ってしまっているのだけど、本当に方針がどんどん変わるな。これまで作ってしまったものはどうしよう。アウトレットセールにでもするしかないだろうか。もっとも、そもそも少し不安になってきたのだが、ロゴをアイロンプリントした水着、実はまだぜんぜん試用していないんだよな。いまさらだけど、自分用に作ったものを、プールで実際に使ってみて、塩素であるとか、洗濯であるとか、ある程度の耐久性を確認してから、問題なさそうなら売り物にも少し貼ってみるとか、そうしたほうがいいかもしれないと考えている。
 しかしなにはともあれ、とてもいいゴールにたどり着くことができ、興奮している。ああ愉しい。

2026年2月20日金曜日

夜の3回転トウループ


 フィギュアスケートのペアで、三浦璃来と木原龍一の、通称りくりゅうのふたりが、金メダルを獲ったじゃないか。それは本当にすごい、すばらしいことなのだろうけど、競技後の、ニュース番組などでのインタビューで、ふたりの関係性について、絶対にみんな気になっているはずなのに、決して誰も触れないことに、気持ち悪さも感じている。
 ペア競技、息を合わせるために、ふたりで共同生活を送っているそうだ。一緒に買い物に行き、一緒に料理を食べ、そして一緒に桃鉄をやっているらしい。
 え、付き合ってんの?
 絶対にみんな訊きたいのだ。安住さんだって宮根さんだって訊きたいに決まっている。昔なら訊いていた。関口宏や張本勲なら実際に訊いていただろう。でも令和のメディアはそれを口にできない。口にした瞬間、炎上することは目に見えている。オリンピアンへの敬意、などと言う。なんやねん、オリンピアンへの敬意って。なんでスポーツやってるやつを敬わんとあかんねん。でも世の中はそういうことになっている。だからじっと我慢している。我慢して、演技内容であるとか、今日までの挫折とか苦悩とか、別にどうでもいいことを仕方なく訊いている。そしてこっちが歯を食いしばって、ゲスな質問を堪えているというのに、りくりゅうのふたりはその返事の中で、なぜか見せつけるように仲の良さエピソードを開陳してくる。やけに甘い空気を出してくる。もしかして訊けないのを分かった上で遊んでいるのではないかとさえ思えてくる。我々はりくりゅうのてのひらの上で弄ばれているのではないか。それもまたふたりのプレイの一環なのではないか。
 誰か、誰かひとりでいいのだ。ベッドでも龍一のリフトはすごいんですか? と訊ねてほしい。夜はショートプログラムじゃなくて毎晩フリーなんでしょ? と。たとえどっちかが拒んでも、やっぱり挿入ゆずれないときもあるよね、と。
 大会が終わったあと、選手をスタジオに集めてエピソードトークとかやるタイプの番組があるだろう。その司会が明石家さんまであればあるいは、と期待している。「挿入ゆずれない」は特に激しく燃えるだろうな。

2026年2月19日木曜日

パパバナナ


 労働を終えて車に乗り込んだら、バナナの香りが横溢していた。
 出勤の際に食べたバナナの皮を、車内のゴミ袋に棄てていたため、そこから強烈なバナナの香りが発せられていたのだった。バナナは例の巨根バナナだったので、それで余計に香りが強かったのかもしれない。
 夢のようだと思った。
 世の中にはいろんないい香りがあるけれど、なにを思い浮かべても、バナナのそれに勝てるものはなかなかない。甘い美味しそうさと同時に、南国のイメージが浮かぶことで、2月の寒さを和らげる効果も期待できる。できることならいつでもバナナの香りの中にいたい。もしかすると山陰の長い冬で気が違っているのかもしれないが、本気でそう考えた。
 そのような思考になったきっかけが車での出来事だったので、バナナの芳香剤があればいいのになー、と思って検索をしてみる。しかしこれだ、というものはヒットしなかった。次に、芳香剤ではなく香水で、自分自身が常にバナナの香りを放っていればいいのではないかと考えた。そこで「香水 バナナ」で検索をしたら、バナナ・リパブリックの出している香水ばかりが出てきた。求めているのはバナナの香りであって、バナリパのシトラス系の香水じゃねえよ、と思った。
 もういっそのこと、毎朝バナナを1本食べ、その皮を夜までずっとポケットとかに入れて過そうかな。めっちゃ虫が寄ってくるだろうな。

2026年2月18日水曜日

カーリング伝説


 冬季五輪はやっぱりあまり観ていないのだが、それでも他になにも観るものがないときに、たまたまスピードスケートなんかをやっていると、そのまま流したりはする。その一方で、やはりどうしても受け入れることができないのは、4年前にもまったく同じようなことを言っていた記憶があるが、カーリングである。カーリングは、オリンピック競技の中で、どう考えてもダウトだと思う。いちどやってみて「これはダウトだ」となったなら、前回の夏にやっていたブレイキンのように、すぐに取りやめたらいいのに、なぜかカーリングはズルズルと続き、毎回やっている。よほど政治力があるのだろうか。あるいはこれは憶測だが、冬季五輪、結局のところ雪か氷の上で滑るだけなので(もちろんカーリングも氷の上を滑ってはいるが、その要素をぜんぜん感じさせない)、その中でカーリングは異彩を放つキャラであるため、冬季五輪のバラエティ要員として必要とされているのかもしれない、とも思う。
 昨日の夜、ザッピングしていたら一瞬だけカーリングが映り、例のごとく、投げたストーンの進路をモップで擦っていて、なんだかうんざりした。なにがやねん、その競技、なにがやねん、と思った。そして思わず口からこう漏れていた。
「せめて水着でやったりすればいいのに」
 横にいたファルマンから、「はい最低」と認定された。たしかに令和にあるまじき発言であった。だけど、どうしたって「志村けんのだいじょうぶだぁ」とかを観てきた世代なので、盛り上がりに欠けるなら水着になればいい、という思考回路がある。ショート寸前ならぬ、駆逐寸前の思考回路。夢の中と、誰も読んでいないブログの中でなら言えるのだが。

2026年2月17日火曜日

パピエモン


 家で使用しているアイロン台は、買ったときに覆われていた布はすぐにダメになってしまい、家にあった適当な布を貼り付けて使っていたのだが、先日これも一部が焼け焦げてしまい、しかも化学繊維的な布であったため、穴の縁の溶けた部分が硬く尖った感じになって、そこに布を置いたら布が傷ついてしまうという、アイロン台として致命的なことになったので、取り換えを余儀なくされた。そこで用意した新しい布は、なんの変哲もないスレーキなのだけど、布のストックボックスに無造作にツッコんでいたので、しわくちゃだった。なのでアイロン台になるべくピシッと貼り付けるためには、皺を伸ばす必要がある。そのために用いたのは当然ながらアイロンで、アイロン台の、焼け焦げて問題がある部分を避けてアイロンを掛けたのだけど、掛けながら、「先代のアイロン台カバーが、最後にアイロンを当てるのは、高い確率で、自身の後釜となる新しいアイロン台カバーなのだなあ」ということを思った。だからどうした、という話ではあるのだけど、そんなんちょっとだけエモいじゃんね。このエモさに共鳴する人たちだけで作った国に僕は住みたい。そしてがさつな人には決してビザを発給しないんだ。

2026年2月16日月曜日

悪質なタックル大学付属デジタルタトゥー高校


 髪がツートンになっていたので、ファルマンにブリーチを施してもらう。無事に全体が金色になった。去年の秋、気の迷いで黒髪にしたのは、返す返すもよくなかった。人生が急に色褪せた気がした。ファルマンも配偶者として強くそう感じたようで、今回のブリーチもどちらかと言えばファルマンが、「黒が目立つようになってきたからやったほうがいいよ」と話を持ち掛けてきたところがある。そんなにもよくなかったのだ。
 2月ももう半ばで、春はもう輪郭が見えてきたし、プールの再開に関してはもう間近と言ってもいい。というわけで、毛髪つながりで、半月にいちどくらいのペースで行なっている、体毛報告をしたいと思う。日課だった剃毛をしないわりにあまり繁らなかった体毛だが、ここに来て、陰毛に関してはまあまあ生えたような気がする。すね毛やわき毛はもう早い段階で打ち止めということに相成ったようで、前回の報告時点から変化らしい変化はないのだが、陰毛だけはまだ伸びしろがあるらしい。そうなんだ、とも思うし、そうだよね、とも思う。
 以前、「ヒゲはちょうど24時間が経過すると安心してきちんと外に出てくる」という発見について書いたが、それで言うと陰毛は40日間くらいを要するらしい。だいぶ慎重派だな。重たい慎みと書いて慎重。たしかにそうかもな、と思う。ぱぱぼとるって、言い換えれば重たい慎みのことなんだよな。
 しかし時間をかけてようやく心を開きかけているところ申し訳ないが、陰毛はあと2週間あまりの命である。全部というわけではないが、2ヶ月かけて伸びた分だけ剃ることになる。そう考えると少し切ないな。せめて剃る前に、写真だけ撮っておこうかとも思う。だけどアップはしない。野球部じゃないのでデジタルタトゥーは生み出さない。

2026年2月15日日曜日

令和バレンタイン


 昨日は少しバタバタしていたので、今日がわが家のバレンタインデーだった。どういう意味でバレンタインデーかと言えば、ピイガがドーナツを作ったからだ。ホットケーキミックスを使ったドーナツに、湯せんで融かしたチョコレートを塗り、カラフルなスプレーを散らしたもの。そのできあがったものがパットに並べられ、冷蔵庫に入っていたので、「これもう食べていいの?」というお伺いを立て、許可が下りたので、おやつにひとつ食べた。それがわが家のバレンタインデー。
 そういうものか。娘と父という間柄におけるバレンタインデーとは、そういうものだったろうか。そういうものだったのである。どうした、なにか幻想でも抱いていたのか。箱とか袋とかに入れられ、さらにはメッセージカードなんかも付されているとでも思ったか。甘い。ホットケーキミックスを使ったドーナツよりも甘い。
 そもそも相手は令和人である。メスからオスへチョコレートをプレゼントするという、そもそもその観念が通用するはずないのである。ピイガはただ、バレンタインという日にかこつけて、休日の過し方としてお菓子作りを、あくまでしたかったからやったまでであり、そこにイベント的な気負いは一切ない。
 それなのにこちらは、冷蔵庫に入っていたドーナツをひとつ、掠め取るようにいただいただけだが、それでも来月の14日はお返しをしなければならないなあ、などと思ったりする。その思いが古い。それはサザエさんの時代の発想。向こうは、作って贈ったという気がないので、もちろんお返しをもらおうという気もない。とにかくバレンタインデーに対する身構えというものが、このひと世代、四半世紀くらいの隔たりで、異様なまでに変化している。多様性を認め合おうという教育は、とてもきちんと次世代に浸透している。
 などと言いつつ、なにか表面的な部分で巧妙に取り繕われているだけで、肝心なところではむしろ昔以上に残酷だということも知っている。令和ってそう。俺は知っている。令和ってそういうもんだと、いろいろ勝手に決めつけて、これからの後半生を生きていこうと思う。

2026年2月14日土曜日

鈴カステラとオカン


 2週間ほど鈴カステラを切らしていた。由々しき事態だ。由々しき事態なのだけど、そのためだけにわざわざゆめタウンの無印良品に行く、という手間を惜しんだせいなので、完全に自己責任である。仕方なくこの間は、バナナカステラや六方焼きなどでしのいでいた。たまには気分が変わってそれもいいものだ、みたいなことを自分に言い聞かせつつ、しかし内心では忸怩たる思いを抱いていた。
 実家の人たち、すなわち義父母や義妹に対し、「ショッピングでゆめタウンに出向く際は、事前にひと声、『今からゆめタウンに行くんだけど、パピロウ、いま鈴カステラ買う必要ある? 必要なら買っとくけど?』と言葉をかけてほしい」と頼んであって、僕はそれを本当に大真面目に言っているのだけど、どうも上質なジョークだと思われている節があって、いまだ呼びかけはいちども受けたことがない。年始から絶対にいちどくらいは行っているだろうに薄情だ。自分が億劫がって行かないくせに、そんな恨み節まで口を突いて出る始末である。
 そんな実家の面々までも巻き込んだ僕の鈴カステラ狂いに対し、ファルマンは本当にうんざりしていて、もはや完全に無関心を決め込んでいる。鈴カステラを切らしていた日々、僕は日課のように「鈴カステラがないから調子が出ない」とつぶやいていたので、それは嫌気も差すというものだろう。
 そんな折、義母からファルマンあてにメッセージが届けられる。それは、「先日行った喫茶店でその店オリジナルの鈴カステラが売っていたので、パピロウ用に1袋買ったから、用があるとき取りに来て」という内容で、僕はそれを聞いて僕は「む……?」となったし、ファルマンはやはり心底うんざりしていた。去年のトップバリュの鈴カステラ騒動の際も、僕は実家の面々を大いに巻き込んだのであり、なので当然、理解していると思っていた。僕がドラえもんにとってのどら焼きのように、とにかく無類の鈴カステラ好き、などという可愛げのあるキャラクターでは決してなく、鈴カステラの好みに異様にうるさい姻戚だということを。だからトップバリュのあれがなくなって以降、無印良品のしか食べなくなったわけで、であるからしてゆめタウンに行った際はよろしく、という話をしている次第であり、そんな流れを経て、それでも「たまたま見つけた鈴カステラをパピロウ用に買う」という行為をする、そのオカンムーブたるや、すさまじいと思う。なんだろう、その挑戦心。「もうこの人は自分でそう決めたら、絶対に人に紹介された違うものなんか受け入れないに決まってるんだから、あきらめればいいのに」と、ファルマンは嘆いていた。
 しかしその連絡をもらったあと、なんだかんだで実家に赴く機会がなく、そのまま建国記念日を迎え、とうとう自力で鈴カステラを買いに行ってしまった。3袋ごとに安くなるので、今回も9袋買った。久々に口にする鈴カステラの喜びと言ったらなかった。それから2日くらいあとで、義母は突然わが家にやってきて、他のなにかと一緒に件の鈴カステラも置いていってくれたという。労働後に帰宅した僕に「ほらよ」とファルマンが見せてくれたそれは、練乳がかかった、パサパサのタイプのやつで、まだ開けてもいないが、持った瞬間、もとい見た瞬間に、「これは俺が食べないやつだ」と判り、ファルマンにそう伝え、「なんならお返ししてもらえないだろうか」と頼んだが、それはもはや無視された。
 そんな鈴カステラ狂騒曲でした。

2026年2月13日金曜日

ホザいて


 ポルガが「これ解ける?」と言いながら数学の問題集を両親に向かって見せてきた。 もちろん親に助けを求めているわけではない。お前らのような下等生物では絶対に太刀打ちできないだろ、ということを知らしめるための行為である。問題を見る前からその意図は分っているのだが、それでもワンチャンあるかもしれない、と思って目をやる。もちろんワンチャンなどない。数学の図形問題にワンチャンはない。公式とか、法則とか、そういうルールをなにも知らないのだから、そもそも試合にならない。「絶対に太刀打ちできない」のだ。
 それでもファルマンは中学時代、頭の中に強引に勉学を詰め込んだタイプなので、問題を見て「あー、これ。こういうやつ。あれでしょ、あの定理を使うんだよね」などとホザく。ホザくだけで、定理そのものを憶えているわけではないので、もちろん問題が解けるわけではない。でもホザけてはいた。
 僕はホザくことさえできない。立体の、なんでそこで割るの、みたいな部分で一刀両断した面の、それも曲線になっていたりする1周の長さとかを訊いてくるのだ。とてもホザけない。そんなことするのやめなよ、誰も望んでないよ、と諭すことしかできない。でも相手はぜんぜん諭されない。僕がどんなに切々と諭しても、加点は0だ。なんと無情なのか。普通、言葉を弄して諭したら、多少なりともほだされるものではないのか。僕はそうやってこれまで生きてきた。それだけでここまで生き抜いてきたと言っていい。
 そんなふうにして生きてきた僕の娘が、無情の世界で格闘しているのだと思うと、無性に哀しくなってくる。中学生の娘の、難しすぎる数学の問題を眺めていると、万感の思いが込み上げてきて、泣きたくなるのだった。いままさに高校受験の渦中にあり、さらにはこの先の3年間もこの世界でサバイバルしていかなければならない長女、そして春から中学生で、たぶん姉ほどは勉強に適性がないだろう次女、それぞれの前に立ちはだかる、勉強という激しい外圧のことを思うと、親として心がちぎれそうになる。がんばれ、とも思うし、がんばらなくていいよ、とも思う。子どもには、誰にも話せない悩みの種があるだろうが、大人の僕に、傷ついて眠れない夜は、基本的にない。労働を終えて家に帰ったら、ごはんを食べて、お酒を飲んで、水着を作って、エロ小説を読む。それはとても淡々とした暮しのように感じていたが、数学の問題集を見たら、数学の問題集を解かなくていい暮しのなんとしあわせなことか、と思った。
 切に、娘たちがなるべく心地よい時間の長い人生を送ってくれたらいいと思う。だから、勉強をしなければならないとされる学生時代は、やれる限りはやったらいいし、どうしてもやれないな、と思ったら目をつむって耳をふさげばいいと思う。僕はそうしていた。だから数学の問題集を見て、定理についてなにもホザけず、こうしてひたすらピーターパンシンドロームな文章をブログに書くことになった。問題は解けなかったけど、この弄した言葉により、この世のどこかで、なにかが少しだけほだされたらいい。妖精なんていない、って誰かが言うたびに、妖精はひとりずつ消えてゆく、という定理。

2026年2月12日木曜日

抱きしめたい ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 おもひでぶぉろろぉぉんで「KUCHIBASHI DIARY」を読んでいたら、こんな記述が出てきたのだった。

 柄にもないことをしてみる。メールフォームの設置だ。
 左のサイドバーにある。これはこのKUCHIBASHI DIARYのほか、俺ばかりが正論を言っている、STITCHTALK、NAYAMUKEDOKUZIKENAIに共通のもの。つまりこれによりどのブログからも僕と交流を持つことが可能となった。やったじゃん、みんな、夢かなったじゃん。
 メールフォームでは自由選択で好きなブログを選ぶ項目があって、上記の4つに「うわのそら」を足した5つから複数選択できるので、みんなどしどし「うわのそら」以外の4つにチェックを入れて投票したらいいと思う。本当に待ってます。
 パピロウってネットでの交流を拒んでる感じだからメッセージとか感想とか別にいらないのかな、ってみんな勘違いしてると思うんだけど、言っとくけど僕は褒められるの大好きだからね。ミクシィやってる人の5万倍は好きだからね。なのでみんな褒めちぎればいい。ちぎってちぎって、世界は分断され、小さな政府が濫立すればいい。たとえばcozy rippleトップページのモジャジャかわいい、とかでいいのだ。これは誰も言ってくれないから俺ばかりが言っている。俺ばかりが正論を言っている。暇さえあればトップページを眺め、モジャジャかわいいってステッチトーク(ひとりごと)してる。なやむけどくじけないよ。
 ちなみに返信はJCかJKでもない限りしないです。甘く見んな。
(KUCHIBASHI DIARY 2009年7月6日)

 慌てて確認したところ、たしかに「メールフォーム」というリンクがあって、クリックしてみたら、FC2のそういうサービスのページに飛んだ。まだ生きていたのだ! なんかすごくびっくりした。そう言えば、コメント欄とか、web拍手とか、読者からの反応を求める試みを、もはや20年を超えたブログ人生の、前半期はわりとやっていたように思う。でも途中からすっぱりその発想は捨てた。山之辺と一緒だ。冷凍睡眠の人が目覚めるのを5000年間、愉しみに待っていたが、5300年目に山之辺が蓋を開けたら、中身は粉々に砕けていた。それ以降、山之辺はとうとう人間という存在から逸脱する。そんな感じだ。
 試しにすべてのブログにチェックを入れて、メッセージ欄に「大好きだよ」とだけ記して送信してみた。しかし送信先のアドレスがなんだったのかももはや思い出せず、確認することさえできない。願わくは、いま僕の送ったメッセージが、web空間上の時空を超えて、2009年の、メールフォームを設置したばかりの希望に満ち溢れた僕のもとに、届きますように。2026年の僕は、2009年の僕のことが、大好きだよ。強く抱きしめたいよ。もっとも2026年の僕はJCでもJKでもないので返信はないだろう。JCとJKの親ではあるけれども。

2026年2月11日水曜日

五輪と自己


 イタリアで冬季五輪をやっていて、時差のあるヨーロッパで、しかも冬季と来ては、たぶんほとんど観やしないんだろうと思っていたが、案の定まあ観ていない。しかし開会式だけは一家で観た。もちろん深夜3時とかにやっていたのを生で観たわけではなく、録画したものを夕飯時に、何日間かに渡って観たのである。
 それがなかなかおもしろかったものだから、近年の過去のものも観てみようということになり、2012年のロンドンを観た。観ていて少し驚いたが、僕はこの開会式を、まったく観ていなかった。開催の日程を見たら2012年の7月27日からだというので、当時の日記(USP)を確認したところ、たしかにまったく触れていない。それもそのはず、というわけでもないが、それまで練馬で暮していたわれわれが、第一次島根移住を果たしたのが、この年の7月17日のことであった。つまりロンドン五輪は、引越しをした直後だったのである。それでバタバタしててオリンピック観賞どころではなかった、というわけでは、しかしない。7月27日にロンドンで開催されたということは、今回のイタリアと同じく、日本では28日の早朝ということなるだろうが、28日付の日記の内容はと言えば、「昨日の夜からファルマンと桃鉄をやり始めた。無職と言えば桃鉄だ。」という書き出しで始まる桃鉄の話で、新生活もとりあえず落ち着き、桃鉄を始めてしまうほどだったのに、どうやらこの当時、五輪にもロンドンにも、本当にぜんぜん興味がなかったらしい。そこまで無関心だと潔いと思う。
 あるいは狭量だったということかもしれない。自分の興味のあること以外、本当に排斥して生きていた。若いときって、逆にそうだったような気もする。いまはそこまでの熱意はなく、妻子がロンドン五輪の開会式が観たいと言ったら、黙って一緒に眺める。一緒に眺めては、たまにボソッと「この当時は俺もまだ20代だったんだなあ」などとつぶやく。眺めることを拒んだりはしないが、興味があるかと言えば別になくて、結局のところ自分の話ばかりをする。そういうところがある。もとい、そういうところだけで出来上がっている。

2026年2月10日火曜日

由々しき問題でげす


 選挙の結果を受けて、憲法改正やら、戦争やら、国民ひとりひとりがまじめに考えていかなければならない課題が多いですね。
 ちなみに僕は昨晩、布団に横になったあと、もちろんいつものように下半身に穿いていたものをすべて脱いだのだけど、しかしその直前にトイレに行っていたこともあり、ちょっと気になる気持ちもあって、うーんと思っていたのだけど、そのときパッと閃いて、上半身のパジャマの下に着ていた肌着、これがお腹を冷やさないためなのか、裾がずいぶん長い仕様なのだけど、これを最大限に伸ばして、股間周りを前も後ろもすっかり隠してしまう感じにしたのだった。僕が寝るとき下半身になにも身に着けないのは、主にウエストゴムを忌避してのことなので、これはまったく問題がない。宗旨替えではない。この、蔽うとも蔽わないとも言えない、包むとも包まないとも言えない、淡く守られている感じが、とてもよかった。この格別の安心感の正体はなんだろうと考えて、たぶんこれはロンパースのそれなのだと喝破した。あの、ボトムスを穿いているとも穿いていないとも言えない、そして必要とあらばすぐに局部を取り出すことのできる、赤ん坊限定のファッション、ロンパース。それの感触を思い出すから(自分が40年以上前にそれを実際に穿いていたのかどうかは知らない)、この状態はこんなにも心地よく、幸福感に溢れているのではないかと思った。ならばいっそのこと、裾の端にスナップボタンを取り付け、本当に0分丈みたいにしてはどうかとも思ったのだけど、そんな夫は、そんな父親は、たぶんとても嫌だろうと察し、自重することにした。もっともその分野の研究者の端くれとして、局部を取り出しやすい衣類は、究極的には、赤ん坊か、あるいは被介護者のものであるということを、僕は既に知っている。だとすれば42歳が仮にロンパース的なものを身に着けるとしたら、それは果たしてどっち側だろう。それはやっぱり、できれば被介護者ではなく、赤ん坊側のそれであってほしい。あってほしいと思うバブー。ただのプレイじゃねえか。

2026年2月9日月曜日

雪疲弊


 昨晩、窓から駐車場を眺め、自分の車は家からは見えないのだけど、見える車のフロントガラスに雪がないものだから、夕方の陽射しでとりあえず車の雪は融けたのだな、と安心していたが、あの人たちはどうやら前日のうちに車の雪かきを実行した意識の高い人たちだったようで、今朝、30分早く出発することにした薄暗い中、全体がこんもりと真っ白い愛車を目にして、愕然とした。積み重なった雪の高さは、15cmほどだったろうか。しかもひと晩放置したため、かなり硬くなっている。マジか……、と嘆きながら、ひとり静かに格闘した。出発するまで10分以上かかり、手の感覚はなくなり、全身が水浸しになった。最低限のフロントガラスの雪だけをどけたので、屋根の上の雪は、これはたぶん走行中、下り坂とかで急にフロントに滑り落ちてくるんだろう、あれめっちゃ怖いんだよな、と思いながら走り出したら、案の定、ここでか、というタイミングでそれが起り、心臓がしめつけられた。それでなくても、雪の残った、そして凍った道の運転は緊張感が高く、結局職場に到着したのは、精緻な計算でもしたかのように、ちょうど普段通りの時間というミラクルだったのだけど、今日はその時点でもうヘロヘロで、もう疲れたので家に帰って寝たい、と強く思った。とにかく心の支えは、水曜日が休みだというその一点だ。日中は陽が差し、まあまあ雪は融けたが、まだ残る部分には残っている。明日の運転もまだ気は抜けない。でも明日さえ乗り切れば、水曜日は休み。ただひたすらそれだけをよすがに明日をこなそうと思う。

2026年2月8日日曜日

雪の選挙の日


 ちゃんと雪であった。日本海側で大雪と言われているときでも、それは東北や北陸のことであって、山陰はそうでもなく、それでも鳥取はそれなりに積雪があったりもするようだが、島根の平野部ともなると本当に大したことない、というのがいつものパターンなのだが、今回はそれなりにきちんと降り積もった。島根でこれなのだから、件の地域はもっとすごかったに違いない。幸いなことに日曜日であったので、どうしても雪で遊びたいというピイガに合わせて、駐車場まで出て車のワイパーを立てた(こういうときにワイパーを立てることについて、未だにきちんとした理由付けを把握しておらず、車の上に雪が降り積もってからそうすることにどういう効果があるのかよく分からなかったが、なんとなくやった)以外は、本当に外出せずに過した。こうなることを予期して、というほど意識が高かったわけではないが、投票は昨日の外出の際、ファルマンとともに事前投票を済ませていた。これはやっておいて本当によかったと思った。食事は家にあるものでなんとかした。今週は水曜日に休みがあるので、そこで生活が整えられるだろうという余裕もある。
 夕方になり、少し日が出てきたような気配があったが、そこまで雪を融かすほどの力はなかっただろう。明日の朝は早起きをする必要がありそうだ。夜は開票速報を冒頭だけ眺める。そうかそうか、と思う。政治というのは、寄せては返す波なのだな、ということを、四半世紀ほど垣間見てきて、しみじみと感じる。だいぶ他人事というか、まるで山之辺のような視点だな、と思う。

2026年2月7日土曜日

美肌と金玉


 太平洋側で乾燥が叫ばれているが、山陰なのでまったく悩まされていない。何年か前に「美肌県」と銘打ったことがあったが、なるほどそれはそうなのだろうと、暮していて納得する。さらには最近、加齢を気にして意識を高めたことにより、日によって複数の洗顔料を使い分けたり、洗顔後にピーリングを施したりするようになったので、2月という、従来ならばなかなか過酷な状況となりそうな時期に、ともすれば思春期以降の自分史上、最も肌の状態がいいとさえ言えるほどだ。不意に自分の頬に指が当たると、そのつややかさに驚く。Instagramのステマみたいなことを言っているが、ステマと大きく違う点は、使用している商品の名前がまったく出てこないことだ。主張したいのは、この商品がいい、ということではない。僕の肌がとてもいいという、ただそれだけである。ステルスでもなんでもない。むしろ特攻だ。
 2月ももう上旬が終わりかけていて、あと2週間もすれば春の気配がだいぶ強くなってくることだろう。これに関しては毎年だいぶのぼせて、前のめりで欲しがる傾向があるので、実はもう日々の中でちょいちょい感じ取っている。日が長くなってきたな、と感じたのは、もう半月ほども前のことである。冬至からわずかひと月でそれを感じ取るのだから、我ながらだいぶ感度が高いと思う。俺は感度が高いし、そのうえ陰毛が薄い。そんなの最高じゃないか。本当にすぐ自分の話をするものだ。
 あと春の訪れと言えば、やっぱり金玉肉袋ということになる。ここ3年ほど、毎年春先に春金玉短歌というものを詠んでいて、今年もそのうちやるつもりだが、それの2023年の歌に、「金玉の意見が割れて仲たがい右は三寒左は四温」というものがある。今だんだんその兆候が出てきていて、右と左で季節の捉え方が違うな、と思うときがある。左の金玉はまだ「冬のなんかね」と言っているし、右の金玉はもう「春のなんかさ」と言っている気がする。ただし肌にしろ、金玉にしろ、それらの状態をどう感じ取るかと言えば、自分の指で触ってであるわけで、だとすればそれは指の腹のコンディション次第なのではないか、という気もする。基本的に右の金玉は右手で触るし、左の金玉は左手で触る。あまりクロスはしない。ちなみにいま試しにやってみたら、右手と左金玉、左手と右金玉、それぞれ新鮮な興奮を覚えている様子だった。セルフフェラならぬ、セルフスワッピング。自己愛が強いと、とうとうそんなことにも興奮を覚えるようになるのか。

2026年2月6日金曜日

最強インフルエンサーの逡巡


 図書館で「インスタグラムを楽しむ方法」みたいな本を借りているのをファルマンに見つかり、爆笑される。「そんな本を読まないと楽しさが解らない人は、インスタやらなきゃいんだよ」と笑いながら言われた。夜中とは思えないくらいの大きな声で叫んでやろうかと思った。
 Instagramである。相変わらずたまに眺めているが、見ていても苛立ってくるばかりで、いまだなかなか魅力が掴めない。興味のない情報ばかりが出てきて、それでイライラするのだけど、その一方で僕は、自分の好きなものを好きな人が好きではない、人々が賛辞するものはそれだけで嫌い、みたいな、クソみたいな、本当にクソみたいな性分があるので、たぶんInstagramは、だれかをフォローをすることで、そのフォローが次のおすすめフォローに繋がって、みたいな感じで、そうやってどんどんフォローを増やすことで、自分にとって心地よい情報ばかりが届けられる夢のような空間になるという仕組みなんだと思うが、自分以外の他者による発信では絶対に心地よくならない人間は、じゃあいったいどうすればいいんだろう。もちろん解っている。妻の半笑いの顔とともに再生される。「インスタやらなきゃいいんだよ」
 でもやるのだ。ブランドを立ち上げているのだから、Instagramをしなくちゃならない。現代はそういうことになっているのだ。だから僕は本を読んで学習する。よく公民館などで、「シニア向けのスマホ講座」みたいな知らせを目にするが、見るたびに、「スマホ講座ってなんだよ(笑)」「学ぶもんじゃねえよ(笑)」とバカにしていた。しかし若者にとっては、スマホ講座も、「インスタグラムを楽しむ方法」も、ぜんぜん同じかもしれない。じゃあ僕もいっそ公民館でスマホ講座を受講しようかな。実際マイナカードのこととかぜんぜん分かってないしな。

2026年2月5日木曜日

ジブリの考察ブログですよ!


 先週末、作業の傍ら「魔女の宅急便」を再生していたのだけど、そのとき初めて、ジジは途中から喋らなくなるけど、実は最初からいちども喋ったりしていなかったのではないか、キキがただの鳴き声を勝手に脳内で言葉に変換していただけだったのではないか、ということを思い、観終えたあとでファルマンにそう語ったら、
「まあ二派に分かれるよね。実際に喋ってたけど途中から聞き取れなくなった派と、最初から喋ってなかった派。原作だとわりとはっきりと、魔法の力で会話ができるってことが説明されるんだけど、宮崎駿はどちらかと言うと本当は最初から喋ってなかったっていうふうに取れるように描いてるよね」
 という感じで語りはじめたので、すごすごと逃げ帰りたい気持ちになった(残念ながら自室だったので逃げ帰る場所がなかった)。
 ファルマン曰く宮崎駿がそう取りやすいように描いているという、ジジは最初からいちども喋っていなかった説に、もはや何十回目か分からないが、僕は今回の観賞で初めて思い至ったのだった。さらにはファルマンに語りかけた際、わりと本気で、俺くらいの慧眼ともなるとそういう斬新な解釈にも辿り着いちゃうんだよね、という気持ちを抱いていた。これは世界で最初に僕が気づいたことかもしれない、と。
 これは恥ずかしい。穴があったら挿入したいくらい恥ずかしい。さらには挿入だけでは飽き足らず、抽送の果てに大射精までしたいくらいの気持ちだ。
 42歳になってこういうことになる原因は、基本的に人の意見を聞かないからだろう。他人の考察など読まないし、人々が語り合っている場にも首を突っ込まない。だから自分が新たに思いついたことが、世界初のことのように思えてしまう。この分だと、何年も前から言っている、「トトロは小さいのと中くらいのと巨大なのがいるから、あれは(おそらく少女性愛者の)ちんこを示している説」も、「崖の上のポニョは精子と卵子が受精するまでの物語説」も、僕よりも早く、みんなとっくに言っていたのかもしれない。でも僕は寡聞なので知らない。僕は僕しかそういうことを言っているのを聞いたことがない。だからまあ、案外これはしあわせなことなのではないか、とも思う。

2026年2月4日水曜日

余計に愛しい


 もう治まったのだが、10日ほど前、正体不明の咳に悩まされていた。
 洟や咳が出ることに対し、ファルマンはすぐに「風邪だ」と言い、「これは風邪ではない、アレルギー性鼻炎だ」と弁明しながら、やっぱり風邪だったりもするのだが、今回のものは本当に違った。喉も痛くないし、痰も出ない。ただ唐突にときどき咳が出るのだった。寝ている際にも発生し、睡眠に支障を来した日もあった。でも体調はぜんぜん悪くならないのである。
 その乍中でもうすうす察していたが、ここ数日それがぜんぜん出なくなったことを考えるにつけ、これは加齢と冷気の表面張力的な現象ということに違いない、と結論付けた。
 10日ほど前、ポルガの誕生日であり、大寒の時期、きちんとすごく寒かった。寒さとは水位のようなものだと思う。暑さでもいい。環境の過酷さが、水位だとする。それが真冬であったり、真夏であったりすると、高まる。「タイタニック」で客室に水が溜まり、ディカプリオが顔を天井に向けて耐える場面を思い浮かべてほしい。そういう状態だ。若くて生命力があると、そうやって耐えることができる。子どもたちは真冬でも、こちらが言わなければ、ともすればコートやダウンを着ないで外に出ようとする。強い生命力を感じる。別に自分だって、日常の中でそこまで老いを感じるわけではない。42歳、まだまだ若い。しかし寒さや暑さが、気のせいか毎年だんだんつらく感じるようになってきた気がする。容赦ない水位の上昇に対し、体が自然と背伸びをし、ものともしないような、そんな軽快さはない。ティーンと生活しているので、余計にその事実を痛感する。
 だから平穏な気候の時期にはなんの問題もなくても、いま僕は、1年でいちばん寒い、いちばん過酷な時期には、ちょうどギリギリの、表面張力のような状態で、ちょっと水が溢れるのだと思う。それがあの咳だったのだと思う。掠めるように、負け始めたのだ。細かいジャブで、ポイントを稼がれ始めたのだ。このリアリティたるやどうだろう。風邪じゃないのだ。体調を崩したけど快癒しました、ではないのだ。加齢が世界に追いつかれたのである。

2026年2月3日火曜日

むいむい


 先日の気にしない短歌で「3本で250円するようなそんなバナナなパパバナナだな」というものを詠んだのだが、これは実体験がもとになっているのだった。というのも、僕はこれまでわりと小ぶりなバナナを選んで買う傾向があり、それはフットワーク軽く小刻みに食べれたほうが都合がいいという考えからそうしていたのだけど、あるときスーパーで、3本しか入っていない袋を目にし、5本も6本も入っている袋に較べ、その3本の立派なことと言ったらなく、実はそのときは買わなかったのだけど、目と同時に心も奪われていたようで、その日から1週間ほど悶々として、翌週末、同じスーパーに行って、今度こそ購った。1週間思いを募らせていたこともあり、手に取ったときの充足感と言ったらなかった。巨大なバナナを手にしたときの充足感というのは、たぶん本能的なものだと思う。帰宅して長さを測ったら、20cmになんなんとする大きさで、バナナというのは本当に、ちょうど当て嵌まるのだな、と感心した。6本くらい入っている小ぶりなバナナが中学生のそれだとしたら、3本しか入っていないそれは紛うことなき巨根で、4年前の僕ではないが、なるほどこれは憧れの対象になるなあ、と思った。
 ちなみにだが、短歌は後半ずっと母音が「あ」が続くという趣向を凝らしているのだが、たぶん誰にも指摘してもらえないので自分で言った。
 あとパパバナナという言葉は、もちろん「バナナのおやこ」という童謡から取っているのだけど、パパバナナとコバナナは分かるとして、ママバナナとは一体なんだろう。ママにもバナナがあるのだろうか。ママのバナナは、それはパパバナナなのではないか。あるいはパパバナナのバナナは、ママ専用のママバナナであるという意味だろうか。どちらにせよ淫靡な歌詞だな。
 これを機に、今後は巨根バナナ派に鞍替えしようと思っている。持ち重りする巨根バナナには、フットワークとかの利便性を凌駕する、圧倒的な精神的充足感があると知った。

2026年2月2日月曜日

祝祭は終わる。戴冠だけが続く。(没コピー)


 最高傑作ができた。昨日作っていた水着が、ものすごくいい出来だった。
 こちらである。

 王朝は滅びても、象徴は立ち上がる。
 NOBITATTLE.


 ダマスク柄というのだろうか。繰り返しの文様で、なんとなく格式がある。モノトーンなのも雰囲気が出ていると思う。


 もちろん型は現時点での最高到達点である極北ボックスで、この無理のない裾のラインが好もしい。そして見れば見るほど本当に、ボックスとして極北でありながら、アンサーソングだけがのびのびとしている、見事なフォルムだと思う。
 そして今作の最もすばらしいところは、ここである。


 裁断の際、左右に同じ柄が出るように心掛けるのは当然のこととして、それ以上の特別な意識をしたわけではなかったが、実際に縫い上げてみたら、画像のようなことになった。お判りいただけるだろうか。左右の柄がとてもいい具合に融合して、上部の肉棒部と、下部の金玉肉袋部が、本当にその内容を示すかのように、象られ、修飾されたのである。なんという奇蹟であろうか。柄の雰囲気も相俟って、もはや神秘主義的でさえある。ここには確実になんかしらの存在が宿っている。祝福されている。実際、祝福されるに然るべきものを、これで包み込むのだからして。穿いていたらエネルギーが湧いてくると思う。
 この柄ではとりあえず2枚を作製したのだが、柄の取り方が微妙に異なるため、もう1枚のほうはここまで絶妙なことにはならなかった。こんなことわざわざ言うべきではないかもしれないが、そっちが販売用である。画像の最高傑作のものがもちろん自分用。文句あっか。
 ちなみにこれにはロゴを貼っていない。ロゴを作って間もないくせにそんなこと言うのかよ、という話だが、このデザインにはロゴがないほうが絶対にいいと思う。まあそこは臨機応変にやっていこうと思う。
 いやー、それにしてもいい出来。すばらしい。早くこれを穿いてプールに行きたい。

2026年2月1日日曜日

「僕のメイドは同級生」を読んで


 10冊目。2010年4月刊行。通し番号は155。
 前作から丸一年も空いている。著者の都合か版元の都合か分からないが、初期の勢いのことを思うと、この鈍い刊行ペースがやけに切なく感じられる。
 カバー袖の著者メッセージは以下の通りである。

 出た! 突然出た! ご主人様の、メイドによる、ご主人様のためのエロメイドノベル! その名も×5! 僕のメイドは同級ゥ生! マニア垂涎のスク水メイドもあるゾ。

 なんやねん、と思う。著者メッセージ欄って、こういうことじゃないのではないか。作品自体の売り文句や説明は、帯や背表紙に書いてあるのだから、この欄ではどこまでも作者の個人的な近況を書けばいいと思う。僕はそれが知りたいのだ。しかしこのままならなさ、正体の掴めなさこそが、神楽陽子のミステリアスな魅力に寄与しているのかもしれない、とも思う。
 あらすじはこちら。

 ごく普通の少年、一誠と、クラスで人気を集める委員長、萌葱。一見正反対の少年少女だが、家に帰れば立場が一転、ご主人様とメイドの関係に! 主に思いを寄せるメイド&委員長の二つの顔を持つ萌葱に対して、一誠は……!?

 そうなのだ。著者のこのレーベルにおける10冊目にして、今作は初めての単独ヒロインものなのである。名前のついたキャラクターは完全に主人公とヒロインのふたりしかおらず、そのふたりが最初から最後まで、ひたすらに一対一でエロいことをし続ける。あらすじには「一誠は……!?」と意味不明な煽りがあるが、別に重要な決断や劇的なドラマがあるわけでもない。ふたりの仲を引き裂く存在はいないし、恋のライバルもいない。
 前にも何度か語った気がするが、エロ小説の主人公というのは、設定上、あまり冴えない男子であるケースが多く、押し並べて童貞だが、しかしなぜか物語が紡がれ始めた瞬間から、怒涛の如くモテ始める。それは普通に考えたらとても非現実的なことなので、そのテンプレートに沿った物語を作りにあたり、作者は主人公が突然モテ始める理由、きっかけを考えなければならない。ただしそのきっかけを構築することこそが、物語そのものを構築することなので、それはとても有機的な作業であるはずだ。ここを面倒がって疎かにすると、なぜ主人公が急にモテ始めたのかという、土台となる部分が不安定になってしまうので、物語の骨格が揺らぐことになる。
 今作がまさにそれで、主人公とメイドは、互いが幼い頃からほぼふたり暮しのような生活をしていたが、物語が始まるまで、性交渉は一切なかった。それが物語が始まった途端、メイドが特に理由もなく、主人である少年に供する紅茶を、ティーカップではなく自分の女性器に注ぎ始め、それによって火が付いた主人公と、めくるめく愛欲生活が開始されるのだ。読んでいて、とてもびっくりする。きっかけって、こんなに描かなくていいの? と思う。そして、いいのか悪いのかで言うと、やっぱりあまりよくないのだ。
 エロ小説で感情移入のことについて語るのもずいぶん恥ずかしい行為だと思うが、きちんときっかけが描かれないと、女の子とセックスをするようになる、主人公の気持ちに共感できない。行為はエロい。でも心がついていかない。読んでいて、これはAVのようだと思った。AVにだって物語性に凝ったものがあるのは知っているが、その一方で、なんの説明もなくただ男と女がひたすらエロいことをするだけ、どうせお前らそれが見たいだけのことだろ、的なものが大半だろう。今作は、まさにそれみたいだと感じた。もしかしたらそういう趣向なのだろうか、一般的にイメージされるAVのノベル化という試みなのだろうかとさえ思った。だとしたらそれはなんと意味不明な試みなのか。
 ちなみに今作は、『ボクのメイドは同級生 真夏の海と内緒の夜』として、続編と言うか、後日譚みたいなものが、電子書籍限定で発売されており、こんな企画をやっていない限りはそこまでして読もうとも思わなかったが、せっかくなので、単行本を読み終えた勢いのまま、購入してブラウザ上で読んだ。実際の購入価格は入会キャンペーンクーポンでもっと安かったが、定価は300円もするので(紙の単行本が630円なのだ)、どれほどのボリュームなのかと思ったら、たぶん単行本にすると70ページくらいのものだろう。内容は、やはり主人公とメイドが、特に何の波乱もなくふたりきりでエロいことをするというもので、なぜこれがわざわざ電子書籍で300円で販売されたのか、さっぱり分からなかった。唯一の特筆すべき点としては、神楽陽子にしてはとても珍しく、スクール水着ではなく面積の小さいビキニだったということくらいで、それはビキニ派の僕にとってはとてもありがたいことのはずだったが、しかしやはり著者の嗜好とは合わないのか、明らかに筆が乗ってない感じで、いまいちだった。
 まあこういうこともあるだろう。刊行ペースからも窺えるように、この時期だいぶ調子が悪かったんだろう。そんなときもあるさ。こんなことくらいで見限らないよ。