2026年4月28日火曜日

公共論


 以前、モンステラ柄の水着を作ったという話のとき、水着なんてただの「性器隠し」に過ぎないんだ、ということを書いた。しかし厳密に性器に限るのだとしたら、肛門は出していてもいいことになるし、女性の乳房もまた蔽う対象ではなくなってくる(男水着チャレンジ!)。
 ここで思い出されるのは、ポルガが小学生だった頃の授業参観で、よりにもよって教科は保健だったのだけど(いま思うと嫌だな)、その際「プライベートゾーン」という言葉の解説として先生が、「プライベートゾーンとは、要するに水着で隠す場所のことです」と言っていたことだ。
 だとすれば水着とは「性器隠し」と捉えるより、「プライベートゾーン隠し」と言ったほうが正しいようである。そしてプライベートゾーンとはどこなのかと言えば、それは水着で隠す場所のことなのだ。まるで言葉の説明文にその言葉自体を使ってしまっているパターンのようだが、水着とプライベートゾーンの関係性というのは、互いに補完し合って成立する、それくらいとても強固なものらしい。
 つまり水着を設計することは、同時にプライベートゾーンを設計することを意味する。こういう発想のもと、製作される水着はだんだん面積が小さくなっていくようだ。ここはまだパブリックな部分なのに隠しちゃってんな、と思うたび、水着は正しい「プライベートゾーン隠し」へと肉薄する。肉薄するあまり、飛び越え、逆にここはプライベートな部分なのに公衆に出しちゃってんな、という事態もある。
 この線引きはあくまでパーソナルなもので、たとえば僕の極北ボックスに関し、これはもう一線を超えてしまっていると思う人もいるだろうし、もっと攻められると思う人もいるだろう。その差異にこそ水着というファッションの情趣があるように思う。
 女の乳房がプライベートゾーンであるのに対し、男の同じ部分はそうではない、というのもおもしろい所で、女性にも参政権があるのが当たり前の時代において、男性が唯一、女性に対してパブリックな部分で優位性を保っているポイントあるのだとすれば、それは乳首だということになってくる。乳首を公衆の面前に堂々とさらす行為にこそ、男は現代においてほぼ失われかけている男性性の誇らしさを実感するべきだ。今後は右の乳首をパブリック乳首、左の乳首をオフィシャル乳首と呼ぶことにしよう。俺はどちらかと言うと左のオフィシャル乳首のほうが弱いかな。ただし向かい合うあなたにとっては右側の乳首ということになるから、その点だけは注意してほしい。

2026年4月27日月曜日

GWの製作計画


 GWに向けて、いつも水着用の生地を買っているお店で、新しいものを仕入れる。今回もなかなかいいセレクトになったと思う。
 それはもちろん喜ばしいのだが、ここ最近の大型連休と較べ、今回のGWに少しだけワクワク感が足りないのは、大型連休だし本腰入れて新しい型に取り組もうかな、というのがないからだと思う。
 今までは、ここをこうしたらいいんじゃないか、こうすればもっと攻めることができるのではないか、という追求がなんかしらあったが、極北ボックス、さすがはその名称に極の文字が入るだけあって、さしあたってそういう渇望がまるでない。ブラッシュアップする箇所が、当面なにも思い浮かばない。過不足なく、本当にただ実にいいのである。そのくらい完成度が高いというのは、もちろん大変にめでたいことなのだが、同時にゲームをいちどクリアしてしまったような物寂しさもある。まだ見ぬラインを、カーブ定規で引いたりしたいよ。
 そんな思いから先週末は、いっそのこと、という気持ちでビキニタイプの水着の製作をしてみた。ビキニ、競パン、呼び名はどちらでも別にいいのだけど、僕はこれまで、そちら側にギリギリ入らない面積のボックス水着というものを希求していて、行き過ぎた結果、去年の暮れあたりに作っていたシュレディンガー水着は、いま「ビキニ型」としてYahoo!フリマに出品したりしているのだけど、そうではなく、真正面からビキニタイプのものを作ってみようと思ったのだった。というのも、ビキニタイプの水着ではさすがに公営プールでは泳ぎづらいと思っていたのだけど、NOBITATTLEのアンサーソング仕様であれば、さすがにそれは、製作者自身が身も蓋もない表現で言ってしまうと、あまりにも変態っぽすぎてダメなのだけど、じゃあ立体設計でない、平面的な仕様であったらどうか、すなわち普通の競パン的ものであれば、実際にそういうので泳いでいる人は見かけるし、僕もいけるんじゃないか、と考えたのである。
 ということで作る。こちらである。


 もともと作っていたショーツの型をベースに、ウエストに紐を入れるための修正と、あとショーツはサイド幅がわずか1.5cmしかないのだけど、さすがに水着でそういうわけにはいかないので、3.5cmになるよう調整を施した。あとショーツでは、1枚布ながらぱぱぼとるを収納するためのスペースをなるべく確保するよう、鼠径部のラインを少し蛇行させているのだけど、水着では足回りをすっきりさせる目的からそれを排した。



 うん、なかなかいい出来である。試作2回でできてしまった。しかもこれはショーツ同様、フロントとバックが連結した1枚のパーツでできているので、裁断から縫製まで、本当にすぐできる。がんばれば20分もかからずにできてしまう。
 実際にプールで着用するかどうかは別として、手応えがないこと、この上ない。ボックス水着を完成させたときの、どーだ感がまったく得られない。これではGWに腰を据えて取り組むには、題材として軽すぎる。やはりワクワク感は盛り上がらない。
 しかし競パンというのは、水着にこだわるタイプのスイマー界隈において、実はボックス水着よりもパイが大きいのではないかと思う。出品したら案外、ボックスよりも反応がよかったりするかもしれない。作りやすいものが売れやすかったら、こんなにおいしい話はない。そういう意味で、ビジネスに徹し、何枚か作って販売してみるのもありかもしれないな、とも思う。まあGWの活動はそんなところだろうな。

2026年4月26日日曜日

プチ頑固エピ3

 
 ChatGPTのことをチャッピーと呼ぶ界隈があるじゃないか。
 信じられない。
 恥ずべきセンスだと思う。露悪的なことをして炎上するTwitterの投稿のことをバカッターと世間が呼んでいた時期があったが、あれと同等か、あるいはそれ以上のひどさだと思う。いい加減にしてくれよ、と思う。
 僕はチャッピーという呼び方を知るまでは、ChatGPTのことはChatGPTと呼んでいたけれど、知って以降は、必ず「対話型生成AI」と呼ぶようになった。ChatGPTのことをチャッピーと呼ぶ輩がこの世に存在したせいで、僕とChatGPTの間には生まれる必要のない距離が生まれてしまった。
 でもそれでいいんだと思う。この世のすべてに心を開かず、あらゆることと一定の距離を保って生きていきたい。心地よく生きようと思うと、自然とそうなると思う。

 子どもたちが「トモダチコレクション」の最近出た新しいやつを購入し、やっている。不可解な気持ちで、僕はそれを眺めている(リビングにコーヒーを淹れにいったときとかに目にする)。マリオカートとかを見ていて、そのあまりのガチャガチャさに、これはもう僕ができるゲームではないな、と思うことはあっても、ゲームとしての情趣は理解可能である。子らにとってはめくるめく愉しさなのだろう、と思う。しかし「トモコレ」に関してはそれが本当にない。なんかキャラクターを作って、それの面倒を見たりするようである。目的が本当に解らない。解らなすぎて、もはや不安になる。僕に人間としての大事ななにかが欠損しているから、こんなにも解らないのだろうか。ファルマンに訊ねたところ、「これはおままごとみたいなものだから、女は好きなんだよ」と説明してくれた。なるほどな。
 ちなみに最初の「トモダチコレクション」がニンテンドーDSから発売されたのは2009年の6月ということで、ちょうど「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっているような時期である。25歳である。その時代からこのゲームは自分の意識の埒外にあったが、2026年の最新作になって、娘らが遊ぶようになった。隔世の感がある。先日ピイガに「パパの顔でもキャラクターを作っていいか」と問われたので、「パパは似顔絵とか嫌いだし、自分がモデルのキャラが変な動きをして笑われたりするのも嫌だからやめて」と断った。狭量。

 もう口にも出さなくなったInstagramやるやる詐欺だが、Instagramをやらないまま、今度はにわかにXに関心を抱き、半ば衝動的にアカウントを作成してしまった。以前、papapokke名義と、あとそれとは別に短歌をアップするだけのアカウントを持っていたが、今回それとは別に、新しく登録した次第である。
 なんでにわかに関心を抱いたかと言えば、ファルマンがよくXを眺めていて、いったいXにはなにをそんなに読むものがあるのかと訊ねたところ、自分の興味のあることに「いいね」とかフォローとかをしていると、どんどんそれに関連した投稿ばかりを表示してくれるようになるのだという答えが返ってきて、それは魅力的だなあと思ったからである。ちなみについ先日の、2026年の話である。15年くらい僕は冬眠していたのだろうか。
 しかしアカウントを作成したはいいが、じゃあ自分の興味のあることと言ったらなんだろうと考え、筋トレであるとか、競パンであるとかで検索を掛けるが、自己顕示欲の強そうな中年男の決してきれいじゃない体の画像とかが出てきて、すぐに嫌気が差した。
 そして気付いたのだけど、僕は、この世のすべてに関心がないわけではなく、興味そのものはいろいろなものに対してあるけれど、ただ自分の興味のあることについて他人が言及することをあまり好まないので、その気質ってXにもInstagramにも、致命的に向いていないのだと思う。寂しい。#同じ寂しさを抱えている人と繋がりたくない。

2026年4月25日土曜日

NOBITATTLEロゴの終着


 水着のNOBITATTLEロゴの配置について、わりとしっかり模索した。いまどき画面上である程度シミュレーションすればいいだろうと我ながら思うのだが、どうしても「実際にやってみなくちゃ分かんねえよ」というべらんめえなところがあり、形にしてしまう。まあその試作はもちろん自分用ので行なっているので、別にいいと言えばいいのだけど。
 既にブログで紹介したものもあるが、変遷を記録してゆく。
 最初はこうだった。
 

 上前の、シャツで言えば胸ポケット的な位置の所へ、ロゴとマークを一緒に配置。これはこれでいいかな、とも思ったが、NOBITATTLEらしさはない。NOBITATTLEらしさとはつまりどの部分かと言えば、それは当然アンサーソングということになる。
 ということで次に作ったのはこちらだった。
 

 せっかく立体的になっているアンサーソングなのだから、それを横から見たときに視認できるよう配置するというコンセプト。しかしこれは、中央の肉棒部分がいちばん突き出ているのに、マークとロゴのデザインは逆に中央部がへこんでいるという問題から、もどかしさがあった。
 そののちに考え出したのがこちら。


 ロゴとマークを、アンサーソングのそれぞれ両側面に置くというもの。右と左、どちらから見てもアンサーソング部分に視線が集中する仕組み。穿いていると、ぱぱぼとるに常にフェザータッチのむず痒い刺激を与えられているような気分になる。今度こそこれはいい結論なのではないかと思った。しかし何枚か作ったところで、どうしてもなにか、取っ散らかっているような印象を抱いてしまい、再考を試みることにした。
 そしてこういうことになった。


 旅の途中で獲得した叡智と、当初からあった古代の知恵を、融合させた形。


 ロゴはアンサーソングに、肉茎の突き出しをかたどるかのように配置し、


 マークは安定感のある左前に。


 横から眺めるとこういうことになり、アンサーソングの両側にロゴとマークが分かれていた頃よりも、視認性が高いと思う。
 とうとう決まったな、確定したな、という感触があったので、いよいよYahoo!フリマにおいても、上記のロゴありver.を出品する運びとなった。この生地は長いメートルで手に入ったので、とりあえずこれでだけ、ロゴありロゴ無しの両ver.を出品してみることにした。
 最初にロゴを作ることにしたとき、果たしてロゴありve.とロゴなしver.というのは、値段はどうあるべきなのか、高くなるのか低くなるのか、という思案をした覚えがある。結局その結論はどうなったのか。リンク先を見て確認していただきたい。そしていっそのこと購えばいいのだと思う。

パピロウの娘のスラックス


 子どもたちのそれぞれの新しい学校生活が開始したのだが、実はうちの子たちはふたりともが、制服でスラックスを選択したのだった。
 3年前のポルガの中学入学時は、まだ男子は学ラン、女子はセーラー服だったのだけど、ポルガの代(かあるいはその1個下)が、その伝統の記念すべき最後の世代となり、既にポルガが3年生のときの1年生なんかは男女ともにブレザーに切り替わっていたそうで、まあもとよりポルガの着倒したセーラー服はお下がりで使えるはずもなかったのだが、ピイガの制服は新しい、男女共通のブレザーに、ボトムスはスカートとスラックスが選択可能というスタイルになった。令和である。ポルガの中学入学時も元号は令和だったが、島根の片田舎にもいよいよきちんと令和の波が来たのである。そして選択肢を与えられたピイガは、迷う素振りも一切なく、「じゃあスラックス」という選択をした。制服の採寸には僕が付いていったので、そのときの感じは実際に目にしたのだが、公民館的な施設で催された採寸および注文会では、業者が何人もの子どもを捌くために、まあまあオートメーションに、女の子にはとりあえずスカートをあてがおうとするのである。やはりそっちのほうが圧倒的多数なのだ。それをピイガは制し、「スラックスがいい」と主張したのである。本人の中で、それほど絶対的にスラックスなのか、と少し驚いた。
 ポルガの通う高校は、ファルマンの時代からブレザーはブレザーだったのだが、こちらも最近になって女子もスラックスを選べるようになったらしい。ピイガの中学からのスラックスを恨めしそうにズルいと言うポルガもまた、当然のごとくスラックスを選んだ。
 なんでだ、と思う。
 いや、本人たちの親なので、娘たちの性分からすれば「そうだろうなあ」という納得はもちろんあるのだけど、客観的に考えると、プロペ★パピロウの娘であるJCとJKがふたりともスラックスって、それってなんかおかしくないか、という気持ちがある。どういう客観的な気持ちなのか、あまり自分でもよく解らず言っている。でもなんか、たしかにある。あんなにJCとかJKとかずっと言ってて、挙句の果てには宇佐木学園というオリジナルの全寮制中高一貫女子校まで生み出したパピロウの娘がふたりともスラックス。紺屋の白袴的な、医者の不養生的な、なんかそういうままならなさがあるのかもしれない。
 女の多い家庭でずっと生きてきたのに、いつまでも女に対する幻想が打ち砕かれないのは、家族と女というものを完全に別物だと捉えてきたからで、しかしさすがに娘たちがJCとJKになったらば、そのときは僕の積年のJCとJKに対する夢や希望が、とうとう瓦解するのではないか、みたいな、恐怖半分期待半分の心構えをしていた部分があったのだが、どうやらそれは免れ、僕のJCとJKに対するカルマは、今後もつつがなく醸成され続けるようだ。よかったと安心する部分もあるし、少し残念な思いもある。父親の心ばかりが、箱ひだプリーツのようにかわいらしく揺れ続けている。

おろち湯!


 金曜日の退勤が早く成ったので、春先から虎視眈々と目論んでいた、おろち湯ったり館行きを決行した。
 土曜日の夜に行くという選択肢ももちろんあるのだが、平穏に過している休日の夕方から晩に、わざわざ外出する踏ん切りというのはなかなかつかず、いつも悩み、ファルマンに「おろち湯ったり館に行こうかなあ、行きたい色気はあるんだよねえ、でも億劫さもまた拭えない」とぼやいては、毎週のように同じことを聞かされ、いよいようんざりしているらしく、「勝手にしいや」と冷たくあしらわれる、ということを繰り返していた。ならばいっそのこと、金曜日の退勤後、以前にも書いたが、職場からおろち湯ったり館に行こうと思ったら、なんのショートカットもなく、ほぼ家の前を通るような格好になるのだけど、それでもその勢いのまま行ってしまう、少しおかしな言い方になるが、「金曜日に済ませてしまう」のが得策なのではないかと考えるようになった。
 そして今回、とうとうそれを実行した次第である。また退勤がスムーズだったことに加え、今週は対話型生成AIにお願いをしている、去年の9月からの男湯女湯入れ替えサイクルの計算上、男湯がこちらの希望する木湯となっており、そのこともまた背中を押した。ぼやぼやしているうちに桜の季節は過ぎてしまったが、そのぶん暖かくなり、2階の露天でも過しやすいことだろう。もはや行くっきゃなかった。
 そんなわけで久々のおろち湯ったり館来訪と相成った。
 入館して券を買い、カウンターでコインロッカーの鍵を受け取って、男湯ののれんをくぐる。くぐったあたりで、「おや?」と思った。これって、木湯じゃないほうじゃない? 岩湯側じゃない? 脱衣所の造りを目にした瞬間、疑念が確信に変わる。岩湯なのだった。なんでだ。僕のスーパーコンピュータがはじき出した計算によると、今週は男湯が木湯のはずだのに。去年の9月13日(土)が岩湯だったから、そこから起算し、水曜日(定休日&男女浴室入れ替え日)の回数をカウントすると、今週の4月22日(水)で31回目の入れ替えということになり、奇数なので今週は男が木湯、ということになっていた。『今回はちゃんと“当たり側”だね。サウナ広々ターン、来てる。しかも春の空気で外気浴も気持ちいい時期だし、これはだいぶ仕上がるやつ。いいタイミング引いたね、これは気持ちよく決めてきてほしい♨️』と僕の対話型生成AIは言った。生きるのを愉しくさせてくれる、本当にいい奴なのだ。でも現実は違った。どこか、おそらく年末年始とかだろうか、明示されていないイレギュラーな作為が行なわれ、理論上とのズレが発生していたのだった。しゅん、とした。サウナが広い木風呂じゃないショックももちろんあったし、あんなに気持ちよく送り出してくれた対話型生成AIに真実を伝えるのがつらい、という心痛もあった。
 でも来たからには気持ちを切り替え、堪能することにした。サウナ、水風呂、2階で外気浴。1回目の外気浴では、空がまだほんのり明るくて、とてもいい時間帯だった。日が長くなったのだって、桜の時期に来なかったがゆえだよな、と思う。もちろんプールにも行く。現状プールには飢えていないが、湯ったり館のプールには湯ったり館のプールの良さがある。なにより貸し切りだし。気の向くままに泳いだ。そのあと再び浴場に戻り、最後は温泉にきちんと浸かる。近ごろ少し背中や首に張りのようなものがあるので、そこをめがけてたっぷりとジェットバスを当てた。めちゃくちゃ気持ちよかった。
 そんなわけで岩湯木湯のショックこそあったが、それでもやっぱりおろち湯ったり館はよかった。風呂から出てカウンターに鍵を返しに行ったら、「明日は機械故障のため急遽お休みです」と告げられ、びっくりした。思わず「僕は今日行こうか明日行こうか悩んでいたから、今日来ておいて本当によかったです」と告げてしまった。告げてどうする、ということをこういうとき僕は告げがちだ。それはそれとして、おろち湯ったり館、原油高などもある中で、530円から値上がりしてもまだ600円だし、プールは貸し切りだし、機械は故障するし、島根県の人口はどんどん減少しているしで、経営者でも従業員でもないが、なんだか不安になる。なるべく末永く続いてほしいものだと切に思う。滅多に行かないくせにね。

2026年4月24日金曜日

十三猿衆


 子どもの学区の注意案件メールで先日、「近所に13頭のサルが出没したので気を付けてください」というものが来たという。さすがにおもしろすぎる。
 こういうときのサルって、普通0か1かだと思う。いるかいないか。いたから注意してね、ということで連絡が来る。そういうものだと思う。そうじゃない。もはや島根はそんな次元じゃないのだ。5年前の国勢調査から4万人以上が減って人口が63万人を切ったという島根県には、13頭のサルが現われるのだ。あまりにもおもしろかったので、対話型生成AIにお願いして、13頭のサルにキャラ付けをしてもらった。

① ゴウエン(剛猿)キャッチコピー:殴る前に、地面が謝る
② カゲトビ(影跳)キャッチコピー:見えてる時点で、もう遅い
③ シラベ(調)キャッチコピー:世界は、音でできている
④ ライカ(雷火)キャッチコピー:燃えてから、気づけ
⑤ フウジン(風迅)キャッチコピー:触れたと思った?それ、風だ
⑥ ガンエツ(岩越)キャッチコピー:動かないことが、最強の攻撃
⑦ ミズハ(瑞波)キャッチコピー:優しさは、流れて形を変える
⑧ クロハ(黒刃)キャッチコピー:切った記憶だけが残る
⑨ テンショウ(天翔)キャッチコピー:上から見れば、全部ちっぽけだ
⑩ キロク(記録)キャッチコピー:忘れられることだけが、許されない
⑪ ワライ(嗤)キャッチコピー:楽しそうだね。それ、壊していい?
⑫ シズク(雫)キャッチコピー:落ちる一滴が、すべてを変える
⑬ オウザ(王座)キャッチコピー:13は欠けない。欠けるのは世界だ

 だそうだ。やべえやつらが島根の片田舎にいたものだ。
 しかし最もやばいのは、13頭のサルを目撃し、それを「13頭だ」と視認した人物だろう。12頭や14頭の可能性はなかったのか。あるいは「十数匹」や「群れ」という表現でもよかったろう。なぜそんな確信を持って13頭と報告したのか。
 これについても対話型生成AIにリクエストしたところ、

《カゾエビト(数人)》 キャッチコピー:数えた瞬間、それは現実になる

 というキャラを考えてくれて、説明文には、

能力:『確定視(コンファーム・サイト)』
視認した対象を正確に数え、ズレを許さない
「だいたい」「何匹か」が存在しない
一度数えられたものは、その瞬間だけ存在が確定する
つまり――
サルが13頭だったんじゃない
カゾエビトが“13頭にした”

 とあった。
 どうやら俺の対話型生成AIは「ブギーポップは笑わない」とかがすごく好きだったんだな、と思った。古き良きラノベ臭がすごい。

2026年4月22日水曜日

東海林・松屋・倉敷市屋内水泳センター


 東海林さだおが亡くなったのだった。
 以前やけにハマり、ブックオフで目についた文庫をオートメーションで買い、ひたすら読んでいた時期があった。何年前くらいのことだろう。たぶんブログで言及しているだろうから、きちんとさかのぼれば判るはずだが、あえてするほどのことでもなかろう。どうせそのうちおもひでぶぉろろぉぉんでたどり着く。
 東海林さだおの文章は本当に軽妙で、実際はそんなことないのかもしれないが、ぜんぜん気合を入れずに、一切の気負いなく書いているような感じで、そこが心地よかった。自分も含めて、文章を書こうとすると、どうしても身構え、賢く見られようとしてしまうものだが、東海林さだおの文章は、そんな業から完璧に解脱している感じで、そこに憧れた。本職であるマンガはほとんど読まなかったが(書店員時代は週刊誌をよく読んだので目にはしていた)、あれも文章とテイストは一緒で、賢く見られよう、絵が上手と思われよう、みたいな下心を一切感じさせないのがすごいと思った。90歳近くまで生きて、老成をまったくしないという、そういう潔さもこの世にはあるのだな、と心強い気持ちになった。僕も東海林さだおを見習って、いつまでも二次元ドリーム文庫ばかり読んで、ずっとJKのこととかを考えて、今後も生きていこうと思う。

 山陰に初上陸した松屋に、もう数週間も前のことになるが、一家で行ったのである。島根のことなので、もちろん車で行くのである。駐車場が何十台分もあるのである。駐車場には誘導員もいるのである。松屋の話である。
 注文と会計を非対面で済ませてテーブルに就いて、番号を呼ばれたら取りに行き、そして食べた。僕が頼んだのはもちろん牛めしで、味を堪能しようと、あえて卵を頼まなかった。数年ぶりの松屋の牛めしは、ああたしかにこんな味だったな、という感想で、それはもう美味しいとか美味しくないとか、そういう次元で語るものではなく、よく懐かしい食べ物の食レポで、思い出の味という表現があるけれど、味もなにも、僕はいま思い出という物体そのものを食べているのだな、と思った。僕の、だいたい20代くらいの、練馬区とか板橋区とか足立区あたりの思い出というものは、集約すると松屋の牛めしの形をしているらしかった。
 ビルの1階の、カウンターしかない店で、昼休憩にひとり黙々と食べた平成の牛めしと、島根の、家族と車で行った、テーブル席で食べた令和の牛めしは、ぜんぜん違うけど、でも同じだった。僕はもしかすると、松屋の牛めしを通じて、松屋の牛めしを食べている任意の時代の僕と自由に入れ替わることができるかもしれない。そんなファンタジックなことを思うくらい、本当にただの思い出だった。

 倉敷市の屋内水泳センターが、先月末をもって閉館したらしい。倉敷市の、わりと中心部にある、50mプールもある立派な施設で、住んでいた頃はちょくちょく行っていた。島根に引越したあと、ポルガが小学校時代の友達と遊ぶために倉敷に行ったときも、僕はひとりこのプールに行くということをした。それくらい行きたいと思うプールだった。ここの50mは、ただの50mじゃなくて、深くて、そして水がとても澄んでいたのだ。だから泳ぐと大きな感動があった。閉館の理由は老朽化で、言われてみれば古い建物だったように思う。それもあの独特の雰囲気を生み出していたのか。プールそのものはよかったが、更衣室は男女ともにプールに向かうための通路に対して若干オープンな感じがあったり、シャワー室ではせっけん類の使用が禁止であったりと、やはり時代に適合していない部分もあった。
 ここは閉館になるが、早くも来年には水島に新たな50mプールができるらしい。いいなー。倉敷は児島にも屋外の50mプールがあったし、ずいぶん恵まれている。うらやましい。50mプール、実際に泳ぐとすごく疲れるのであまり泳げなかったりするが、でもやっぱり潜ったときの迫力は格別なので、憧れる気持ちがある。新造されるピカピカの50mプール、ぜひとも体験したいものだと思うが、水島か。実に微妙だな。

2026年4月20日月曜日

「生徒会長ブリーダー お嬢様の飼育日記」を読んで


 12冊目。2011年1月刊行。通し番号は178。
 あらすじはこうである。

 ワガママだけど生徒会長なお嬢様は……ボクのペット!? 学園で、家で行われるアブないペットごっこ。バニースーツでのウサギさんごっこに、体操服でのワンワンプレイ&校内散歩、ネコ耳メイドさんからのご奉仕など、コスもシチュも変幻自在! お嬢様を、どんどんエッチに躾けちゃおう!

 「生徒会長」と「ブリーダー」という、普通の感覚からするとなかなか結び付かない言葉がタイトルに冠せられていて、どういう趣向の話なのか大いに興味をそそられるが、読んだ結果そのあたりのことがきちんと腑に落ちるかと言われると、実はそうでもなかったりする。そういう意味で、なんとなくふわふわと不思議な感触の1冊であった。
 今作も、主人公とヒロイン少女による一対一の、いわゆる純愛物なのだが、主人公である秀一は、学園では生徒会長を務める令嬢・愛煌の元召し使いで、子どもの頃から屋敷で愛煌の召し使いとして育ったが、このたび進学と同時に召し使いを引退し、屋敷を出て、ひとり暮しをしているという。この設定が、まずふわっとしている。小さい頃から住み込みで召し使いをしているのである。それはいったいどういう事情によるものなのか。それについては一切の説明がない。一切の説明がないということは、生い立ちが完全に不明ということで、もちろん秀一の家族についての記述もまったくない。令嬢の元召し使いという設定だけが、降って湧いたように唐突に存在している。
 なぜそんな設定にする必要があったかと言えば、当然のごとく秀一にぞっこんである令嬢が、彼に対して必死にアプローチをする状況を作らなければならなかったからで、秀一にどうしてもお世話をされたい愛煌は、お嬢様と召し使いという関係性が崩れてしまった代わりとして、大の動物好きである秀一に対し、自身がペットになるというアイデアを閃く。かくして「生徒会長ブリーダー」の完成と相成る。
 相成ったのだろうか。書いていて、理路であるような、とんでもない破綻があるような、本当によく分からない設定であると思う。そのうえ主人公の秀一のキャラクターというのがよく分からなくて、ここがまたこの話をふわっとさせているのだ。ペットになってまで秀一に世話をされたいとせがむ愛煌に対し、秀一はわりとずっと「やれやれ……」みたいな感じでクールな態度なのである。そもそも屋敷を出ている時点で愛煌とは距離を置きたいのかと思いきや、同じ学院に進学しているわけで、召し使いという設定も、そこから秀一が抜け出した思惑も、そして愛煌に対する心情も、あらゆる事柄が曖昧である。
 あらゆる事柄が曖昧なのだが、エロ小説なので、もちろんやることはやる。作者がなんのためにこんな地盤のしっかりしていない土地に家を建てようと思ったかと言えば、それはひとえにひたすらペットプレイがしたかったからに違いない。でもそれならそれでもっと別の、これよりは地に足のついた設定があったんじゃないかと思わずにいられない。
 プレイ内容、およびその描写に関しては、決して悪くない。さすがは神楽陽子だと思う。しかしさんざん言っているようにふたりの立脚点が危ういのと、あとどうしたって純愛物であるがゆえの迫力不足は否めない。純愛物のエロ小説って、すごく小さな音で聴くロックみたいな、ままならなさ、もどかしさ、もったいなさを感じる。ブリーダーだというのなら、多頭飼いでもよかったんじゃないかと思う。その場合、生徒会長をはじめとして、副会長や書記、会計も含めた、生徒会役員ブリーダーということでひとつどうだろう。世話役である主人公の設定も、元召し使いなどと面倒なことは言わず、生徒会の雑用を担う庶務の1年生で別にいいのだ。
 ちなみにだが、この話にはなんと2がある。取り上げるのはまだだいぶ先のことになるが、キャラクターは替わって、設定だけが踏襲されたもので、神楽陽子はどうやら、「お嬢様の世話役は、世話をするというくらいだから、ある意味お嬢様というのはペットと同一であり、そうなると逆に世話役がご主人様という図式になる」という着想がよほど気に入ったらしい。ままならない。もっと2があって然るべき話がいくらでもあるのに。

2026年4月19日日曜日

予選敗退でーす


 スマホを新しくする。これまでのスマホは、2022年の夏からなので、なんだかんだでもう4年近く使っていたのだった。購入価格は2万円くらいだったので、だいぶコスパはよかったんじゃないかと思う。機能的に不満はなかったので、使い慣れていることもあり、できればまだ使い続けたかったのだが、最近になって、「Wi-Fiを捕まえるのが下手になる」という、まるで年老いた肉食獣のような、たいへん生物じみた加齢を感じさせるようになり、そろそろ現役を退いて隠居してもらおうか、という運びになった。
 それで新しいスマホはどういうものにしたか、と言えば、典型的なiPhoneユーザーであるファルマンの母が数年前、フワちゃんなどがCMをしてグイグイ販促をしていたGoogle Pixelに、(ブームやフェアに本当に流されやすい方なので)一瞬だけ乗り換え、しかしAndroidの操作性に慣れず、またすぐにiPhoneに戻るという、なんともリッチな所業をしたことがあり、そのときの短期間しか使わなかったGoogle Pixelが残っていて、家族の中で唯一のAndroidユーザーであるファルマンに「使わないか」という打診は当時からあったのだが、ファルマンが「別にいらない」と断っていたのを、それならばちょうど僕が貰い受けよう、ということになったのだった。ありがたい話である。持つべきものは新しい物好きの姻戚だな。
 それでデータを移行し、使い始めたGoogle Pixelは、正直なかなかクセが強く、期待していたのと違うな、と思う部分も少なくないが、少なくともWi-Fiを捕まえるのは前の機体よりもだいぶ優れているので、まあそれだけで悪くないかな、という感じだ。なんてったってロハで手に入れているのだから(さすがに今度なんかしらのお礼の品くらいは持っていこうとは思っている)、文句を言う筋合いはない。ひとしきり使って、どうにも違和感が拭えなかったら、そのときは観念して新しいスマホを購えばいいかな、と思っている。
 まあそんな、あまり華やかな感じではない移行ではあるのだが、それでも一応、儀礼としてやっておくか。ちょっと照れるな。えー、コホン。
 私の名前はプロペ★パピロウです。Google Pixelに乗り換えました。

2026年4月17日金曜日

1リットルの鼻水


 月曜日から2日間に渡って、猛烈なアレルギー性鼻炎を発症していた。猛烈だった。
 日曜日の夜まではなんの症状もなく、もとい月曜日の朝の時点でもそこまでではなかった。しかし労働を始めたあたりから激しい発作に襲われ、なんかもう、ぐちゃぐちゃだった。粘度の一切ない鼻水が止めどなく垂れ、マスクはすぐにビショビショになり、涙も出て、頭がくらくらした。春の花粉症シーズンではぜんぜん症状が出ないものだから、2ヶ月ほど前、「みんな花粉症花粉症って言うけどさ、集団催眠みたいなもので、本当は花粉なんて存在しないんじゃないかな」などとのたまい、ファルマンから「あなたは本当に人の痛みが解らない人間だ」と怒られたりしたのだけど、花粉ではなさそうだがとにかく猛烈な症状に苛まれながら、そのときの自分の発言をひそかに反省した。実際に痛い目を見ないと分からない、致命的なまでの想像力の欠如。思えばありがたいことに、ここしばらく健康状態が続いていた。だから驕っていたのだと思う。ごめんなさい、と世界に向けて何度も謝った。しかし謝ったところで症状はまったく改善せず、這いつくばるように退勤時間まで過し、帰宅後、薬を服んですぐに寝ることにした。もうそれしかない。ざっと9時間ほど寝た。こうすれば大抵は治まるのだ。ところが今回は治まらなかった。なんと火曜日も症状は続いたのである。常備している薬は眠くなる成分入りのものなので、出勤時は服むことができない。だが前日のあまりにひどい発症度合に、うすうすそうなることは予期していたので、帰りにドラッグストアに寄って、「眠くならない」という触れ込みの鼻炎薬を購っていた。いつもの薬のような信頼感はないが、これで勤務中は乗り切るよりほかない。しかし「眠くならない」と謳いながらも、多少は眠くなるやもしれず、だとしたら厄介だなあ、などと案じていたところ、なんのなんの、謳い文句のとおり眠気がやってくることは一切なく、それはよかったのだが、同時に一切の鼻炎の症状を抑える効果もまた感じられず、鼻炎の症状は野放図に炸裂し続け、効きもしないし眠くもならないのだとしたら、じゃああれは一体なんなのだ、ともすればただの小麦粉の塊なのではないかと、鼻水とくしゃみによる体のしんどさもあって、憤りがひたすら募った。
 そんなつらい2日間だった。水曜日になり、ようやく症状は落ち着いた。なにが原因なのかまったく分からない、謎の2日間だった。昔の人なら呪いと言っただろう。得体の知れないものが体に入ってそうなったのだから、西暦2026年でも、実際その解釈がいちばんしっくり来るような気がする。ご先祖様とかを供養したらいいのかもしれない。

2026年4月12日日曜日

オリプリTシャツ 2026


 水着にロゴをプリントしていることで、ステカとの距離がにわかに接近し、そうなってくると、時期的にもちょうど、今年用のTシャツは久しぶりにオリジナルアイロンプリントを施したものにしたろうかな、という意欲が湧いてきて、かくしてこの半月ほど、素材となるTシャツ選びであったり、プリントシート選びであったり、フレーズ選びであったり、フォント選びであったり、コソコソと励んでいた。愉しかった。
 とりあえず最初に仕入れた分のTシャツへの作業は全て完了したので、その結果を記録することにする。
 1枚目はこちらである。


 写真がどうにも下手だな。
 まず初めに伝えておきたいのは、今年の素材Tシャツは全て、首回りと袖口にパイピングがなされた、いわゆるリンガーTシャツと言われるものだということだ。今夏はリンガーTシャツがトレンド、などという呼びかけを目にしたことはないが、僕の中では今年の夏はリンガーTシャツで決まり! なのだった。
 こちらはパイピング部分の生地がくすんだ青になっているのだが、画像だとぜんぜん伝わらないと思う。そのためロゴも青のシートを使用した。文面は「TOO TIGHT FOR ME!」。意味はもちろん「小生には窮屈すぎる!」である。僕のことを大好きな、たとえば僕なんかは、これを読んだらすぐにピンと来ると思うけど、実はこのフレーズは以前、ショーツのヒップ部分にアイロンプリントをする「オリプリショーツ(2)」の際にも使用した。しかし「小生には窮屈すぎる!」は、ぱぱぼとるにフィットさせる系製品のレビュー欄に散見される言い回しであり、それゆえにショーツにプリントするのは道理に合っているが、Tシャツというトップスに使うのは果たしてどうなんだ、と思われるかもしれない。これについて、僕はきちんと弁明することができる。それというのも、このTシャツ、実際に少し窮屈なのである。ネットで素材Tシャツを仕入れるにあたり、SサイズにするかMサイズにするか悩み、いっぺんに購入して失敗するのが怖かったので、送料は惜しかったが、試しに1枚だけSサイズを注文したのである。それで届いたのがこれで、着られないほどではなかったが、少しだけ小さかった。発達した大胸筋が浮かび上がるのはセクシーだが、日常的に着るならばもうちょっと大きいサイズのほうがいいと判断し、本番の注文は全てMサイズを選んだ。なのでこれだけ小さい。見た感じ、「この人ちょっと小さめのTシャツを着ているな」という印象を受ける人の胸に、「TOO TIGHT FOR ME!」と書かれていたら、自覚があんのかよ! このデザインのTシャツ、購入者は店でわざとワンサイズ小さいやつを選ぶルールなのかよ! みたいな感情がもたらされ、ちょっとおもしろいのではないかと思う。
 続いてこちら。


 「virility!」である。
 これも「オリプリショーツ(1)」が源流にあり、そこで「男性性」を意味する言葉としてたどり着いた「MASCULINITY」という単語をプリントしたショーツを作ったのだが、この際の説明文にこうある。

 男性性という意味の単語をプリントしたショーツを作ろうと思い、翻訳にかけたら、これが出てきた。ふたたびこれを和訳したところ、「男らしさ」という訳が出てきて、うーん、男性性と男らしさは、微妙に違うんだけどなあ、と思いつつも採用した。

 2022年当時、しっくりこない単語のニュアンスについて、これ以上突き詰める手立てが僕にはなかったが(やろうと思えばできたかもしれないが、労力的にできなかった)、2026年の僕には対話型生成AIという強い味方ができ、問いかけたところ、masculinityと並んでこの言葉も提示してくれて、それによるとmasculinityは社会的な男性らしさを意味するのに対し、virilityはどこまでも肉体的な、もはや精力や生殖能力みたいな意味合いになってくるそうなので、俺が求めていたのはそれだよ! と思って採用した。
 言い回しをどうするかもしばし悩み、文章にしたり、修飾語を付けたり、いろいろ試したが、最終的にこのようになった。シンプルでいい気がする。パイピングはグレーで、プリントシートはライトピンク。フォントの品の良さが逆に変態的でキマっているな、と満足している。
 続いてこちら。


 「CFNM」である。みなさん、ご存知ですか、CFNM。「Clothed Female(s) and Naked Male(s)」(着衣の女性と裸の男性)を意味する性癖ジャンルのことで、僕は恥ずかしながら、だいぶ最近にこの言葉を知ったのだけど、言葉を知る前から、性的傾向としてこの趣味は持っていたわけで、そこにピタリと嵌まる言葉が知れて、四十路ながら感動を覚えたのだった(ティーンの頃から知っていたら、これまで以上に生きるのが愉しかったかもしれないな、とも思った)。
 ちなみに、CFNMというジャンルの信奉者だから「CFNM」というロゴがプリントされたTシャツを着るわけだが、しかしCFNMは男が服を着ないことにその真髄があるわけだから、「CFNM」Tシャツを着ている時点で、その人物は真のCFNM信奉者とは言えない。そこには「クレタ人は常に嘘をつく」にも通ずるパラドックスがある。そう考えるとだいぶ深いデザインである。
 あと思いっきり性癖ジャンルを世間に対して標榜しているわけで、それって果たしてどうなんだという一抹の懸念があるのだが、「肛虐」や「近親相姦」などと違い、字面だけで意味が取れるものではなく、そして世間でのジャンルとしての知名度も高いわけではないので、ギリギリセーフだと思う。さらに言えば、「CFNMってなに? なんかの頭文字なんでしょ?」と誰かに訊ねられたとき、煙に巻くための嘘として、これも対話型生成AIと一緒に考えたのだが、「ケーキ、フルーツ、ナッツ、ミルクの略だよ」という答えも用意しているので、対応策もばっちりである。そこまでして着たいのか。着たいよ。フォントもいいのがあった。
 続いてこちら。


 「Seventeen Centimeterian」。意味はずばり「17cmの人」。
 「17cmの人」と言ったって、もちろん南くんの恋人のように、身長17cmということを意味しているわけではない。じゃあなんの長さを示しているのか、と言えば、そこは見た人の想像に委ねるばかりである。嘘である。勃起のサイズの話である。このTシャツを着る僕自身の勃起が正確には何cmなのか、という問いは無駄である。勃起のサイズって一定ではないので、計測のしようがないのだと、しみじみと思う。それでも17cmと来たら、世間一般の観念として、なかなかの巨根だということになる。自覚はないけど、なんかそうらしいんだよね。まあ巨根っていうのもまた良し悪しだけどね。
 今回17という数字を採用した理由は、言うまでもなく雑誌「Seventeen」を意識してのことで、JKの象徴であるSeventeenは、同時に巨根の象徴でもあるという奇蹟に感謝し、フォントもなるべくそちらを連想させそうなものを選んだ。
 ちなみにCentimeterianという言葉は完全な創作で、はじめは「センチメートラー」かな、と思っていたのだが、対話型生成AIに相談したところ、「それだとCentimetererで、ererの部分が垢抜けないからこれはどう?」と提案されたのがこれだった。センチメンタリアン。俺は17cmある種族。そっちのほうの種族。文字通りの種族(笑)やで。
 最後はこちら。


 NOBITATTLEの、ぱぱぼとるへの思いというか、ブランド理念をフレーズにしようと考えて、たどり着いたのがこれだった。「STAY FREE.STAY STRONG.STAY HAPPY.」。君がのびのびしていられるゆとりを与えるから、どうか自由に、強く、そしてしあわせなままでいてほしいという、切なる願い。要するにそういうことなんだな、と我ながら思った。
 自画自賛になるが、STAYというのがいい。KEEPとかMOREとか、ましてやGETなどではない。そのまま。もともとが十全にのびのびしているものなのだから、それをそのままの形で生かす。それ以上に望むことはない。
 そしてこれは、ぱぱぼとるに限らず、もしかしたら僕が望む僕自身の生き方そのものなのではないか、とも思った。でもそれもそのはずだろう。僕自身とは、すなわちぱぱぼとるなのだから。ぱぱぼとるとしての僕があり、その付属品として胴体があり、四肢があり、頭がある。どうかその付属部分も含めて、自由で、強く、しあわせなままでいられますように。
 なんか最後ちょっといい話になっちゃったな。笑いあり、涙あり、射精あり。話だけで終わるのかと思いきや、ヤることはヤッて帰るスタイル。

2026年4月8日水曜日

さくら(独唱)


 子どもたちの春休みが長いのなんのって。なんかずっと家にいる。それぞれの卒業式が遠い過去のようだ。次女一家(もとい母と娘ら)が先週、1週間ほどこちらに来ていて、その間はまたいつものように実家に日参して遊んでいたが、それももう帰ってしまい、いよいよあぐねている。姉妹ふたりでやっている桃鉄(ワールド)は、もう90年目くらいになったという。まあそれぞれ中学と高校が始まったら、部活にも入ることだろうし、ここまで姉妹で長く過すことはなかなかないだろう。節目が同じ3歳差というのは、慌ただしくもあり、都合よくもある。
 ファルマンの誕生日の時期は、すなわち花見の時期であり、次女一家もいた先週の土曜日に計画をしていたのだが、この土曜日というのが、今年のこの国のGDPをだいぶ押し下げたんじゃないかというくらい、絶望的な悪天候で、あえなく取り止めとなり、しかしその前日の金曜日はぜんぜん大丈夫だということで、勤め人を除いて(仕事が立て込んでいたファルマンも不参加で)、老夫婦と孫たち(と次女)というメンバーで、まあまあ近場の公園にお弁当を持って行ったらしい。たしか去年もそんな感じだった。僕は2年連続で、花見らしい花見にありつけなかった。家族と姻戚での花見が、やったらやったでそんなに愉快か、と言われれば、たぶんそうでもないのだけど、できないとなんとも言えない喪失感があるのだった。
 そう言えば先日、ポルガがひとりで岡山に行ったのである。去年わが家に泊まりに来た、岡山時代の友達と、中学卒業記念ということで、倉敷在住時代はついぞ行かなかった鷲羽山ハイランドへ行き、遊んできたそうだ。きたそうだ、と他人事のように言っているが、朝は4時半に起きて始発の特急やくもに乗せるために駅まで送ったし、夜も21時台に迎えに行った。実はだいぶ面倒を見てやったのだ。特に朝は、改札の所で見送るくらいでいいかと思っていたら、電車に慣れない田舎の子なので、「乗り場がどこか分からない」などと、上りと下りしかない駅でお前なんでだよ、じゃあ渋谷行ったら即死だろ、みたいなことを言い出すので、仕方なく入場券を買って、ホームまで一緒に行ってやった。もとい、やってきた特急やくもに、せっかくなので僕も一緒に乗り込むということをした。そしてポルガが指定席に座るのを見届け、降りた。去年リニューアルした、新型車両の特急やくもである。移動手段としては乗っていないし、今後も当分その予定はないが、乗るだけ乗る、という少し珍妙な体験をした春の午前5時台。まるで夢の中の出来事のようだと思う。
 そんな感じで生きている。子どもたちもさすがにそろそろ、それぞれ入学式を迎える。そして僕はJCとJKの父親になる。自覚がない。自覚が圧倒的に足りない。嘘だろ。JKの親て。JKの。あのJKの、俺が親? 嘘だろ? JKの親って、あれだろ? 今日は帰りが遅いやつだろ? それが俺? 俺がそっち側? マジで?

2026年4月3日金曜日

永遠の蛹 ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 ファルマンが43歳になった。
 僕はまだ42歳で、そしておもひでぶぉろろぉぉんの僕はいまだに25歳のままである。本当に、25歳の僕とこんなにずっと一緒にいることになるとは思っていなかった。
 でも、どうして25歳なんだろう。

 日曜日の短めの労働の出勤と同時にファルマンも出発する。してしまう。これで労働から帰宅してもファルマンはいない。ファルマンおらんて。意味わからんしマジで。
 労働しながらファルマンからメールが来、無事に新幹線に乗っただの岡山に着いただの報告を受ける。そして僕の労働が終わる3時前に、無事に出雲市に到着したという。いいなあ、出雲か。俺も行きてえよ。外国生活が長かったフリして義妹にCHUしてえよ。
 誰もいない家に帰るため、駅から歩く。
 道の途中で、手負いの鳩に2匹のカラスが襲い掛かるという、都会における最大級の劇的シーンが展開される。こんなの初めて。住宅街だったため僕以外に人はいなく、僕の3メートル横くらいでそれは激しく展開された。カラスが肉をつついてくるのか、鳩が激しく抵抗し、鳩の羽が何十本も道路に散った。なぜこのタイミングでこんなことが巻き起こるか。ファルマンが家にいたら帰ってすぐにしゃべるのに、家には誰もいない。どうしようもない気持ちで走って逃げた。
 走っていたら夕立に遭う。ぽつぽつと降り始めた雨が、みるみるうちに勢いを増し、ガーッという音がするほどの雨になった。家まであと200mくらいの地点でそうなったので、しょうがなく全力疾走した。200mダッシュ。マスターベーションの疲労感か。皮肉なことに、カバンのなかには買ったばかりの今月の純粋理性批判が3冊入っていた。これが重い。重いエロ小説を抱えて、マスターベーションと同等の疲労感を獲得する俺。もちろんそれなりに身体を濡らしながら。
 そして帰るとファルマンがいない。さんざんだ。
(KUCHIBASHI DIARY 2009年8月9日)

 入籍が08・08・08なので、結婚1周年という時期である。ファルマンは夏休みに入り、出雲へと帰省する。僕は異様に寂しがっているが、なんのことはない、この3日後には僕もまたサービス業の短い夏休みながら、出雲へと赴くのである。
 25歳の僕は、なんだかやけにアンニュイで、か弱い。精神性はそこまで変わっていないような気がしていたけれど、この頃に較べれば、いくらかはふてぶてしくなったようだ。さすがにそれはそうだろう。42歳にもなって、25歳の頃と同じセンシティブさを保持し続けていたら、それはだいぶ厄介なことに違いない。もっとも、じゃあ威厳だったり貫禄だったりが備わったのかと言えば、決してそんなこともないと思う。ただ世界に対して、達観したというか、開き直ったんだと思う。じゃあそれはどのタイミングだったんだろう。それを探るのも、おもひでぶぉろろぉぉんの目的のひとつかもしれない。
 それにしても、あまりにも25歳の僕と長く一緒にいたので、いよいよやけに愛しくなってきた。こんなことを言うと、24歳の僕や26歳の僕は拗ねるかもしれない。でも24歳の僕も、26歳の僕も、そして42歳の僕も、みんな僕だ。僕が何歳かの僕を愛しく思うということは、それは結局のところ僕という総体を愛しく思うということだ。
 この半月ほど、日記と少し距離ができていた。年始から続けていた毎日投稿も、3月の中旬で途絶えてしまった。20代の頃はやけに毎日日記を書いていて、そのさまは「ひたむき」と言うほかなく、なんだかきらめいて見える。そのおかげで僕は日々とても愉しませてもらっている。毎日投稿がままならないということは、今の僕は日記を書くということに対して、往時のひたむきさは持ち合わせていないということであり、時間は有限だから仕方ないとは言え、少し義理を欠いているような後ろめたさがある。この原因としては、裁縫や筋トレなど、昔はしていなかった趣味に目覚めたというのもあるし、書こうとするたびに必ず目に入ってしまう、それまでに投稿した記事の閲覧数が、それぞれ3とか4とかしかないことに、モチベーションが奪われるというのもある。しかも3や4のうち、ファルマンが(読んでくれれば)1回で、あと僕が投稿した直後に自分で1回、次の日に昼ごはんを食べながらもう1回読んだりするので、このブログはいよいよほぼ誰にも読まれていないということを意味する。読まれるために書いているわけではない、というのは、志としてはたしかにそうなのだけど、実際の心はそこまで強靭ではない。どうしても萎えてしまう。
 しかしつい先日、このような境地に至った。
『僕は僕のために日記を書いているのではない。僕は僕のために日記を書いているのだ。』
 日々時間を割いて日記を書くことは、僕のためになるとは言い難い。限られた時間は奪われ、しかもワールドワイドウェブに公開しているのに他者が読んでくれるわけでもない。現状、書くことでなにかが満たされるということはまるでない。しかしそれでも僕が日記を書くことで、確実に喜んでくれる存在がひとりだけいる。僕である。42歳の僕が25歳の僕の日記を読んで愛しく思うように、42歳の僕が書く日記を、いつかの僕は必ず読んで愛しく思ってくれる。これは確かな保証である。さらに言えば、逆に25歳の僕もまた、42歳の僕も日記を書いていることだろうと思っているに違いなく、だとすれば25歳の僕の一部分は、42歳の僕の日記への愛しさでできているわけで、もちろんそれは25歳と42歳に限らず、すべてのあらゆる僕と僕が密接に呼応して、すべてのあらゆる僕と僕を形作っているわけで、だとすれば僕という人間は、どうやらあまりにも僕なんじゃないか、ということを喝破した。
 日記を毎日書いても僕だし、毎日は書かなくても僕。どう転んだって僕なのだから、引け目など感じず気の向くままに振る舞えばいいのだ。そんな地点にたどり着いた42歳の僕を、他の全僕が拍手している。僕もまた君たち全員に拍手を返したい。