2026年2月3日火曜日

むいむい


 先日の気にしない短歌で「3本で250円するようなそんなバナナなパパバナナだな」というものを詠んだのだが、これは実体験がもとになっているのだった。というのも、僕はこれまでわりと小ぶりなバナナを選んで買う傾向があり、それはフットワーク軽く小刻みに食べれたほうが都合がいいという考えからそうしていたのだけど、あるときスーパーで、3本しか入っていない袋を目にし、5本も6本も入っている袋に較べ、その3本の立派なことと言ったらなく、実はそのときは買わなかったのだけど、目と同時に心も奪われていたようで、その日から1週間ほど悶々として、翌週末、同じスーパーに行って、今度こそ購った。1週間思いを募らせていたこともあり、手に取ったときの充足感と言ったらなかった。巨大なバナナを手にしたときの充足感というのは、たぶん本能的なものだと思う。帰宅して長さを測ったら、20cmになんなんとする大きさで、バナナというのは本当に、ちょうど当て嵌まるのだな、と感心した。6本くらい入っている小ぶりなバナナが中学生のそれだとしたら、3本しか入っていないそれは紛うことなき巨根で、4年前の僕ではないが、なるほどこれは憧れの対象になるなあ、と思った。
 ちなみにだが、短歌は後半ずっと母音が「あ」が続くという趣向を凝らしているのだが、たぶん誰にも指摘してもらえないので自分で言った。
 あとパパバナナという言葉は、もちろん「バナナのおやこ」という童謡から取っているのだけど、パパバナナとコバナナは分かるとして、ママバナナとは一体なんだろう。ママにもバナナがあるのだろうか。ママのバナナは、それはパパバナナなのではないか。あるいはパパバナナのバナナは、ママ専用のママバナナであるという意味だろうか。どちらにせよ淫靡な歌詞だな。
 これを機に、今後は巨根バナナ派に鞍替えしようと思っている。持ち重りする巨根バナナには、フットワークとかの利便性を凌駕する、圧倒的な精神的充足感があると知った。