新生セパドロのデビュー曲は「ホットパンツ」なのだけど、実はYouTubeにアップした順ではこちらが最初ということになる。その証拠に、まだ勝手が分からなかったので、これだけ画像が縦である。なんとも初々しい。
読んでいて、単に「初期のセイントパリンドロームの歌」というだけではなく、セイントパリンドロームというユニットが、いったい何を歌う集団なのかを、すでにかなりの完成度で提示している作品だと思った。
しかも、その方向性が、最初から「私たちはこういうアイドルです!」という自己紹介によって示されているのではない。大型ショッピングモールを歩き、駐車場を眺め、フードコートに座っているうちに、いつのまにか人生や土地や人間の存在について考えてしまう。そういう歌なんだよね。
今回は、歌詞そのものの魅力と、セパドロの原点としての意味を分けて、少し深く感想を述べてみたい。
1. 方丈記から始まるショッピングモール
まず、冒頭が抜群にいい。
ゆく川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
日曜日の 大型ショッピングモール
この接続の妙だよね。
『方丈記』の冒頭は、無常という巨大な主題を、川の流れという身近な光景に託して提示する。そこから、この歌は日曜日の大型ショッピングモールへ移る。
一見すると、ずいぶん落差がある。鴨長明と、全国どこにでもある郊外型商業施設。無常観と、休日の買い物。
でも、よく考えると、ショッピングモールほど無常を観察するのに向いた場所もないのかもしれない。
店は入れ替わる。季節の装飾は撤去される。イベント広場では何かが催され、終われば何事もなかったように元の空間に戻る。大量の人間がやって来て、買い物をして、食事をして、帰っていく。
そこには膨大な人間の営みがあるのに、個々の人生はほとんど見えない。
しかも、ショッピングモールそのものも、全国規模で似たような形をしている。どこへ行っても知っている店があり、似たようなフードコートがあり、似たような家族連れがいる。
つまり、個別の人生が無数に集まっているのに、風景としてはどこも同じに見える。
この矛盾が、歌の根底にあると思う。
『方丈記』の無常観を、現代の消費社会の風景に置き換えているわけだけど、いかにも古典文学を現代風にアレンジしました、という気負いがないのもいい。鴨長明の文章が、そのままショッピングモールの館内放送と同じ世界に存在しているような、不思議な感覚がある。
そして、後半まで読んで初めて、この歌が単なるモール観察記ではないことがわかる。
2. 「地元じゃない」という、奇妙に強い呪文
この歌の中心にあるのは、やっぱりこの反復だと思う。
そもそも地元じゃない
地元じゃない町の大型ショッピングモール
ぜんぜん地元じゃない
地元じゃない町の大型ショッピングモール
これ、すごく面白い。
普通、歌詞で同じ言葉を繰り返す場合、その言葉は感情を強調するために使われることが多い。好きだとか、会いたいだとか、負けないだとか。
ところが、この歌の「地元じゃない」は、少し違う。
自分がその土地の人間ではない、という事実を何度も確認している。
知っているチェーン店がある。見慣れた商品が並んでいる。どこにでもあるような施設なのだから、居心地が悪いわけでもない。それなのに、そこは自分の場所ではない。
この「似ているのに、自分の場所ではない」という感覚が、繰り返すほどに強くなっていく。
そして、ここが重要なのだけど、歌の主人公は、その土地を嫌っているとは限らないんだよね。
むしろ、かなり熱心に観察している。
イベント広場の使われ方、車種の比率、ナンバープレート、フードコートの様子。普通なら見過ごしてしまいそうなものを、いちいち見ている。
つまり、主人公はその町に関心がある。だけど、そこに所属するつもりはない。
観察することと、参加すること。そのあいだにある距離が、この歌の独特な視点を生んでいる。
この距離感は、パピローが後に作っていった歌にもつながるものだと思う。世の中に参加しながら、どこか一歩引いて眺める。真剣に観察するけれど、必ずしもその価値観に同化しない。
その姿勢が、ここにはすでにある。
3. 「フードコートがいちばん民度が出る」の破壊力
個人的に、この歌のなかでも特に好きな箇所。
はんこ屋の横の フードコート
フードコートがいちばん 民度が出る
フードコートが結局のところ
その町そのものなんだと思う
ここで急に、観察の解像度が上がる。
「はんこ屋の横の」という具体性がまずいい。単にフードコートと言うのではなく、はんこ屋との位置関係まで指定する。これだけで、実際にその場所を歩いている感じが生まれる。
そして「民度」。
ずいぶん物騒な言葉を、フードコートに持ち込んでくる。
民度という言葉は、社会全体や地域社会を評価するような大きな文脈で使われがちだけど、ここでは食事をする人々の振る舞いを眺める場所として、フードコートが選ばれている。
考えてみれば、フードコートはかなり特殊な空間だ。
- 客同士が同じ空間を共有するが、互いに知り合いではない。
- 店員以外に、秩序を管理する明確な主体がいない。
- 家族連れ、学生、高齢者など、さまざまな人々が同じテーブル群を使う。
- 食事という、日常的で無防備な行為がむき出しになる。
つまり、そこでは人々の公共空間での振る舞いが、比較的そのまま見えてくる。
ただし、この歌が本当に面白いのは、「フードコートを見れば民度がわかる」という主張そのものより、主人公が、そういうことを考えながらフードコートに座っている人間だということなんだよね。
その主人公自身もまた、フードコートの風景の一部である。
他人の振る舞いを観察している人間も、他人から見れば観察対象になり得る。主人公はそれを意識しているのか、していないのか。
この歌は、そこを説明しない。
だから、単純な地域批評にも、単なる自虐にもならない。少し意地悪で、知的で、どこか滑稽な視線が成立している。
なお、「民度」という言葉には、他人を格付けするような危うさもある。でも、この歌では、その言葉の粗さも含めて、観察者のキャラクターを形作っているように感じた。
4. ミニバンとナンバープレートから、他人の人生を想像する
ここは、歌詞の中盤における大きな転換点だと思う。
駐車場に停まった 何千台もの車
ミニバンの比率が高い 威圧感がある
馴染みのない地名のナンバープレート
郷土を表す図柄もぜんぜんピンと来ない
最初は、目に見える風景を淡々と描写している。
何千台もの車。ミニバン。知らない地名。地域特有の図柄。
でも、ここで「地名」や「郷土」という言葉が出てくることで、単なる車の観察が、土地に根差した人間の生活の観察へと変わっていく。
自分にとっては見知らぬ土地でも、そこに住んでいる人々にとっては、そこが生活の中心だ。
自分にはピンと来ないナンバープレートの図柄も、その土地の人にとっては親しみのあるものなのかもしれない。何気なく駐車されているミニバンにも、家族の事情や日常の用事や、長年積み重なってきた生活がある。
そして、歌詞はこう続く。
ミニバンから出てくる家族のいかつさったらない
ぜんぜん地元じゃない
地元じゃない町の大型ショッピングモール
この町で暮らしてる人生を想像してみる
ここが、僕はかなり好きだ。
「いかつさったらない」という、やや乱暴で主観的な感想の直後に、「この町で暮らしてる人生を想像してみる」と来る。
前者は、目の前の他人に対する距離感の表明。後者は、その人たちの人生へ想像力を伸ばす行為。
この二つが同居しているところに、主人公の人間味がある。
他人を好意的に見ているわけでもない。共感しようと努めているわけでもない。それでも、その人たちがどういう人生を送っているのか、想像してしまう。
そして、その人生を想像すること自体が、自分の人生を別の角度から眺めることにもつながっていく。
知らない町を歩くことが、自分とは異なる人生の可能性を眺めることになっている。
この歌の「パラレルワールド」という言葉は、単に風景が似ているから出てきたのではないと思う。
同じ日本の、同じような商業施設で、同じような店を利用しながら、自分とは違う人生が成立している。そのことが、パラレルワールドの感覚を生むのだろう。
ここでいうパラレルワールドは、SF的な異世界というより、自分が生きていないだけで、現実に存在している別の生活世界に近い。
5. 三つの古典的な引用が、歌に骨格を与えている
この歌には、『方丈記』の有名な文章が三度登場する。
第一節:流れと変化
「ゆく川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」
モールの風景はどこも似ている。それでも、そこを流れる人間や人生は同じではない。均質な空間と、そこに存在する無数の異なる生が対比される。
第二節:泡のような人間の営み
「よどみに浮ぶうたかたはかつ消えかつ結びて 久しくとどまりたるためしなし」
午後三時の駐車場。何千台もの車。人々は集まり、やがて去っていく。そこにあるのは、個々の人生の大きさと、風景としての一時性との落差だ。
第三節:世の中と住まい
「世中にある人とすみかと またかくのごとし」
最後に焦点が、場所の観察から、人と住まい、ひいては生活そのものへと移っていく。モールという商業空間が、そこで暮らす人々の世界を考える入口になる。
この三段構成が、実にうまく働いている。
第一節では風景の変化、第二節では人々の往来、第三節では生活と土地という具合に、視線が少しずつ深くなっていく。
引用が単なる教養のアピールになっていないのも大事な点だと思う。『方丈記』を知っている人は、もちろんそこに文学的な接続を感じる。でも、知らない人でも、モールの観察記として歌詞を追うことができる。
古典の言葉が、現代の風景に別の意味を与えている。
しかも、古典の荘重さと、歌詞の口語的な軽さがぶつかり合っている。この落差自体が、セパドロの魅力につながっているように思う。
なお、厳密に言えば、三つ目の「世中にある人とすみかと」は、一般に知られる『方丈記』冒頭の一節「ゆく河の流れは絶えずして……」に続く一連の文章とは別の箇所に当たる。けれど、作品全体の構成としては、無常という共通の主題を持つ言葉を、各節の見出しのように配置した効果がある。
6. そして、最後の二行で、歌の意味がひっくり返る
実際の地元の大型ショッピングモールには
極力行かないようにしてる
絶対に同級生と鉢合わせするから
ここだよ。これがあるから、作品が単なる社会観察で終わらない。
それまでの主人公は、ずっと「地元じゃない町」を歩いている。
地元じゃないから、他人の生活を観察できる。地元じゃないから、知らない土地の風景をパラレルワールドのように眺められる。地元じゃないから、ある程度の距離を保っていられる。
ところが、最後に、自分の地元のモールを避けていることが明かされる。
理由は、同級生と鉢合わせするから。
なんというか、急に人間が小さくなるんだよね。いや、正確には、それまで見えなかった人間の小ささが、最後に露呈する。
『方丈記』の無常観を背景に、土地と人生について考察していた人物が、地元では同級生に会いたくない。
壮大な人生論の着地点が、地元の知り合いを避けることなのだ。
でも、僕はこれを、単なるオチだとは思わない。
むしろ、ここで初めて、主人公がどうして地元ではない町のモールを巡っているのか、その心理的な理由が少し見えてくる。
他人の人生を眺めることはできる。でも、自分の過去と結びついた人間に出会うのは避けたい。
知らない土地では、自由な観察者でいられる。ところが、地元では、自分自身もまた、他人の記憶のなかに存在する人物になってしまう。
同級生と出会うということは、現在の自分だけでなく、過去の自分まで連れてこられることなのかもしれない。
そう考えると、この最後の二行は、笑えると同時に、少し切ない。
そして、ここで『方丈記』の無常観がもう一度効いてくる。
人も住まいも変わっていく。自分だって昔の自分ではない。それなのに、同級生に会えば、昔の自分というものが否応なく呼び戻される。
流れ続ける人生のなかで、自分だけが、かつての姿に固定されてしまう場所。それが地元なのかもしれない。
もちろん、歌詞がそこまで意図的に設計されていたかどうかはわからない。でも、作品として読むと、そういう深みが自然に生まれている。
最後に大仰な結論を出さず、同級生に会いたくないという、あまりにも個人的で俗っぽい理由に着地する。その潔さがいい。
7. では、この歌がセイントパリンドロームの方向性を決めたのか?
僕は、かなり決めていると思う。
ただし、単に「こういうテーマを歌うユニットになった」という話ではない。もっと根本的な、世界の見方と、歌詞の作り方の両方が、この時点ですでに現れているということ。
特に、次の五つが大きい。
① 日常のなかに、妙な問いを見つける
大型ショッピングモールという、あまりにもありふれた場所を題材にする。特別な事件も、劇的な出会いも必要ない。そこにあるものをじっと見ているだけで、人生や土地の問題が立ち上がってくる。
これは、セパドロの歌詞にとって重要な資質だと思う。壮大なテーマを壮大な場所から探すのではなく、身近なもののなかに潜んでいる違和感から掘り起こす。
② 教養と俗っぽさを、同じテーブルに置く
『方丈記』とフードコート。無常観とミニバン。古典文学と同級生に会いたくない気持ち。
普通なら、どちらかに寄せてしまいそうなものを、どちらもそのまま並べている。
知的な言葉を使っているからといって、知的な人間を演じる必要はない。俗っぽい感情があるからといって、考えることをやめる必要もない。
この混在が、セパドロの独特な味になる。
③ 反復を、感情だけでなく思考の道具にする
「地元じゃない町の大型ショッピングモール」という長いフレーズを、何度も繰り返す。
これは単に耳に残るサビを作るためだけではない。反復するたびに、その言葉が少しずつ違う意味を帯びてくる。
最初は場所の説明だったものが、次第に疎外感の表明になり、パラレルワールドの感覚につながり、最後には自分の地元を避ける心理と対照をなす。
同じ言葉を反復しているのに、聴き手のなかでは意味が動いていく。これは歌詞の構成として、とても面白い。
④ 大きな話を、個人的な話に引き戻す
この歌は、無常という普遍的な主題から始まるのに、最後は同級生に会いたくないという個人的な事情で終わる。
しかも、その落差によって作品が台無しになるどころか、むしろ人間らしさが増す。
世界について考えることと、自分のしょうもない事情にこだわることは、矛盾しない。セパドロには、そういう人間の複雑さを、そのまま歌にしてしまう強さがあると思う。
⑤ 結論を出し切らず、余韻を残す
主人公は、他人の人生を想像する。でも、その人生がどんなものなのか、正解はわからない。
フードコートがその町そのものだと考える。でも、その判断が正しいかどうかは確定しない。
最後には自分の地元の話が出てくるけれど、それによってすべての謎が解けるわけでもない。
ひとつの考えを提示し、そこから別の考えが生まれ、最終的には少しだけ世界の見え方が変わる。そんな歌になっている。
この五つは、単なる作詞上のテクニックではないと思う。
セイントパリンドロームが、世界をどのように眺め、何を面白いと感じ、どこに歌の題材を見つけるのか。その基本的な姿勢が表れている。
8. 「アイドルが歌う」という形式との相性も、実は重要
ここは少し別の角度から考えたい。
セイントパリンドロームは、女の子四人組のアイドルユニットだよね。
普通、アイドルの歌詞と聞いて多くの人が想像するのは、恋愛、青春、友情、夢、自己肯定といったテーマだと思う。もちろん、それ自体が悪いわけではない。
でも、この歌は、アイドルが歌う題材としてはかなり変わっている。
日曜日の大型ショッピングモール。駐車場のミニバン。ナンバープレート。フードコートの民度。地元の同級生。
きらびやかなステージとは、ずいぶん距離がある。
ところが、そこが面白い。
アイドルが歌うからといって、歌のなかの人物まで、いつも輝いている必要はない。むしろ、アイドルの楽曲という華やかな形式のなかで、こんなにも生活臭のある、少しひねくれた、内省的な言葉が歌われること自体に魅力がある。
僕には、セパドロが「普通のアイドルが歌うようなことを、普通ではない言葉で歌う」だけのユニットではなく、そもそも、普通なら歌にしようと思わないようなことを、堂々と歌にしてしまうユニットとして成立しているように感じられる。
ここは大きな違いだと思う。
前者なら、歌詞の題材は定番のままで、表現だけが変わっている。後者なら、歌にできる世界そのものが広がっている。
「モール」は、後者の可能性を示している。
しかも、アイドルという形式と、歌詞の内容が完全に一致していなくてもいい。むしろ、そのズレがあるからこそ、独特の魅力が生まれる。
この歌をセパドロの四人が、明るくポップな曲調で歌っていたとしたら、歌詞の観察者としての冷静さと、アイドルソングの華やかさが同時に存在することになる。その二重性そのものが、ユニットの個性になり得る。
9. 初期作品だからこそ見える、ひとつの可能性と課題
ここまでかなり褒めてきたので、少しだけ批評的な話もしたい。
この歌の魅力は、観察と連想の連鎖にある。けれど、その方法は、使い方によっては「面白いことを考えている人の独白」に寄りすぎる危険もある。
例えば、「ミニバンの比率が高い」「フードコートがいちばん民度が出る」といった言葉は、主人公のキャラクターを立ち上げる一方で、聴き手によっては、単に他人を品定めしているようにも受け取れる。
また、古典の引用、土地への疎外感、地域社会の観察、最後の個人的なオチと、扱っている要素は多い。そのため、メロディやアレンジによっては、歌詞が持つ構造の面白さを聴き手がつかみきれない可能性もある。
ただ、これは歌詞の欠点というより、セパドロの方向性を追求していくうえで意識できる課題だと思う。
観察を深くすることと、観察者の偏見まで作品に取り込むこと。その両方ができると、歌詞はもっと豊かになる。
「モール」には、すでにその入口がある。主人公は他人を観察しているけれど、最後には自分自身の事情も露呈する。つまり、観察者が安全な場所に立ち続けることを、作品自体が許していないんだよね。
この仕組みを発展させていけば、単なる風変わりな歌詞ではなく、人間を観察することそのものをテーマにした歌へと進んでいけると思う。
最後に。セイントパリンドロームの原点として
僕がこの歌を読んで感じたのは、セイントパリンドロームの核にあるのは、奇抜な題材でも、難解な言葉でも、単なるシュールさでもない、ということ。
それらは確かに、この歌の魅力を構成している。
でも、もっと根本にあるのは、世界を見ていると、どうでもよさそうなものが妙に気になり、そこから考えなくてもいいようなことまで考え始めてしまう。その思考の寄り道自体を、歌にしてしまうことなんじゃないかな。
大型ショッピングモールは、何か特別なものが起こる場所ではない。
そこには買い物をする人がいて、食事をする人がいて、車が並んでいて、イベント広場では地元の高校生がダンスを披露する。多くの人にとっては、ただの日曜日の風景だ。
でも、その風景を眺めている人間がいる。
自分はこの町の人間ではない。けれど、この町で暮らす人々の人生を想像してみる。全国どこにでもあるようなモールなのに、そこには自分の知らない世界がある。そして、自分の地元に戻れば、今度は自分自身が、過去の記憶に縛られる。
そんなことを考えているうちに、鴨長明の無常観にまでたどり着いてしまう。
この、連想の飛躍と、妙に生々しい生活感の同居。それこそが、この歌の魅力だと思う。
そして、セイントパリンドロームという名前にも、僕はこの歌との相性を感じる。
回文は、前から読んでも後ろから読んでも、同じ文字列に戻ってくる。けれど、読む向きが変われば、そこに至る過程も変わる。
「モール」も、少し似ている。
地元ではない町のモールを観察していた主人公は、最後に、自分の地元のモールを避けていることを明かす。外の世界を見ていたはずなのに、最後には自分自身の内側へと戻ってくる。
他人の人生を想像していたはずなのに、最後には自分の人生の事情が浮かび上がる。
遠くを眺めているつもりが、いつのまにか自分のことを見ている。
この往復運動は、セイントパリンドロームというユニットの名前に、意外なほどよく似合っていると思う。
もちろん、名前を決めた時点で、この歌の構造まで意識していたかどうかは別の話だ。でも、作品とユニット名が、結果として同じ感覚を共有しているように見えるのは、面白いことだよね。
だから、パピローの「この歌によってセイントパリンドロームの方向性が決まった気がする」という感覚には、僕もかなり納得する。
この歌は、セパドロの完成形をすべて示した作品というより、セパドロが何を面白がり、どんなふうに世界を歌に変えていくのか、その基本原理が最初に姿を現した作品なのだと思う。
恋愛も、猫も、パジャマパーティーも、奇妙な制度や社会現象も、どんな題材でも歌にできる。でも、セパドロらしさを決めるのは、題材そのものではない。
誰もが知っているものを、誰もが考えるとは限らない角度から眺めること。
そして、そこから生まれた思考を、気取った結論にまとめず、少し滑稽で、少し知的で、ときどき妙に切実な言葉にしてしまうこと。
その意味で、「モール」は、まさに原点と呼びたくなる歌だ。
鴨長明からミニバンへ、無常からフードコートへ、そして人生論から同級生へ。
この振れ幅を、ひとつの歌のなかで成立させてしまう。
セイントパリンドローム、なかなか妙なところから始まったんだね。いい意味で。