2026年9月7日月曜日

娘がアイドルに嵌まる


 ピイガが5人組ボーイズアイドルグループに嵌まった。
 グループ名は「げっPO」(げっぽ)。
 そしてこのアイドルグループ、実はピイガのオリジナルだという。
 最初は紙にペンでメンバーの顔などを描いていたのだが、それを元に対話型生成AIにメンバーのビジュアル作成を依頼したところ、げっPOは一気に実在のアイドルとなった。
 対話型生成AIが作成する、とりあえず目鼻立ちだけは異様に整っている、象徴的で無個性な相貌というものは、要するに現実のボーイズグループの組員が一様に目指し、メイクや加工などでそう仕立てている、そのまんまのものなのだと、げっPOの作成イメージを見て悟った。
 かつて僕は、AIで作成されたグラビア画像をやけに見ていた時期があって、そのときは「もうグラビアは架空の理想の女の子でいいや」と、罰当たりなことを思ったりもしていたが、しかしそう感じていた期間は意外と短く、今はまた現実の、理想に対してドンピシャではない顔だったり肉体だったりする女の子のグラビアを、それぞれの個性を尊重して、むしろその部分をこそありがたく眺めているのだけど、その点、いまどきのボーイズアイドルグループというのは、各人が追い求める見た目というのが本当に統一されている感があるので、対話型生成AIが「こういうことやろ?」と半笑いで出力した画像は、なんかもう、本当に、実在の彼らが必死に作り上げている見た目そのものなのだった。
 なので、ピイガと対話型生成AIが作り出したげっPOは、ぜんぜんいる気がする。俺はこいつらを先週のカウントダウンTVライブライブで観たよ、と思う。本当にはもちろん観ていないのだが、本当に観たやつらと、げっPOの、区別がつかない。そういう意味で、げっPOはやっぱり実在するんだと思う。
 しかしここまでなら、たぶんいまどきは大勢の輩がやっていることなのだろうと思う。オリジナルアイドル創作界隈というものが、実際にあるのかないのかは、そんなジャンルを探ったことがないので知らないが、あまりにも簡単にできることなので、ある程度の人数は既にやっているんじゃないかな、と思う。
 ただしここから先がピイガのすごいところで、誰に似たのか、ハンドメイドというか、小物作りというか、そういうことをするのがとても好きな性分であり、そういう性質の人がオリジナルアイドルを作ったら次にどういうことをするかと言えば、そのオリジナルアイドルの、オリジナルグッズを、次々に作りはじめたのである。シール、うちわ、ステッカー、缶バッジなど、わが家にはどんどん、げっPOグッズが増殖してきている。思春期の娘が、ボーイズアイドルグループに嵌まって、グッズを集めている、というのはよくある風景だが、わが家の場合、グッズは手作りだし、さらに言えばそのアイドル自体もまた手製なのだった。
 もちろんピイガは、げっPOを自分の理想のアイドルとして作っているわけではない。本当に自分好みに仕立てているわけではなく、詳細は彼女の創作物なので勝手には語らないが、その設定はだいぶウケ狙いに走っている。つまり欲求から来る創作ではなく、半笑いで、対話型生成AIのそれと同じく、「こういうことやろ?」の気持ちでやっているのだ。オリジナルグッズ製作も、もともとそういう手作業が好きだという実利はありつつ、当然その悪ふざけの一環だと言える。
 そう考えるとなかなか手の込んだ嫌がらせだ。なにに対する嫌がらせかと言えば、いまの、ボーイズアイドルグループ隆盛の時代そのものに対してだろう。思えばピイガは、これもまた誰に似たのか、人の好きなものは好きじゃない、という性分があり、1年前のちびまる子ちゃんランドでは、盛況するコジコジグッズ売り場で、顔を真っ赤にして憤怒していた。またボーイズアイドルグループと言えば、当世はなんと言ってもM!LKということになるが、そもそもわが家で最初にM!LKに注目したのはピイガであったのに対し、それからファルマンと世の中がド嵌まりしたことで、いまも一緒にM!LKの出演している番組などを観てはいるが、ゲヘゲヘ言いながら観ているファルマンに較べ、ピイガの反応は明らかに冷めているのだった。
 そう考えればこの、げっPOというオリジナルアイドルの創作は、ファルマンをはじめとした、その界隈に対する皮肉であると同時に、誰にも侵されない、誰とも競合しない、絶対にひとり占めできる敬愛の対象を持つ行為であるとも言え、なるほどなあと深く感じ入るのだった。省みれば僕には、MAXファンという設定があるのだけれど、なんでMAXなんかのファンをやろうとしているかと言えば、それは誰とも競合しないからに他ならず、しかし誰とも競合しないということは、それだけ対象とするものの地力がないわけで、ここが同担拒否勢の悩ましいところなわけだが、娘が現代技術を利用して実現した、オリジナルアイドル創作というのは、その命題を見事なまでに解決しているのではないかと思った。
 だから僕も、娘に倣って同じようなことをはじめようと考えている。たぶんピイガのようにうまくいかない。僕の創るガールズアイドルグループには、きっと個人的な欲求が投影される。そういう意味で、純粋な創作からは逸脱する。その結果は目に見えている。でもせっかくなのでやろうと思う。

2026年9月5日土曜日

年度


 夏ってほら、終わったじゃないですか。
 よく9月もまだぜんぜん暑いからまだ夏だ、なんてことを言う人がいて、他ならぬ僕自身も「9月19日までは夏、20日から秋」なんて発言を繰り返していたけれど、でもまあ、8月が終わった以上、夏ももう終わったということでいいのだと思う。
 今年の夏は御せなかった。
 夏が本格的に始まる前、昨年の反省を生かし、今年はどうにか食欲を減退させまいと、「ファルマンと口に入れる物の話はしない」という方策を取った。これは成功だったと思う。食欲ルンバに食欲を吸い取られることなく、ごはんは夏を通してしっかり、意欲的に食べることができた。ただし今年は、近年稀に見るほどに、冷麺というものを食べない夏だった。毎年夏を中心に冷凍庫に常備する、鶏ささみをほぐしたものに軽く味を付けたものも、ほとんど作ることがなかった。なぜそうも食べなかったかというと、僕以外の家族はみな冷麺が好きではないということが、今年になって判明したからだ。もともとポルガは、冷麺を食べたあとは腹を壊しがちであった。これはアレルギーとかではなく、早食いのせいに違いないのだが、そのためこれまではポルガが部活でいない昼食を狙いすまして冷やし中華を作ったりしていた。しかしあるときピイガもまた、冷やし中華はあまり好きではないという話になり、そうなるとあとはもう、この世のあらゆる食べものに関し、「嫌いなもの」と「無」しか感想がない食欲ダイソンしかいないので、なんかもう、すっかり冷麺に関して気持ちが白けてしまったのだった。そして、食べなければ食べないで、別に構わないのだ、冷麺というものは。冷たい麺くらいしか食べる気が起きない、という言い回しがあるけれど、言い回しがあるからそういう気になるだけで、本当はそんなことないのである。夏でもあったかいうどんを啜ればいいのだ。だって冷房を効かせているのだからして。そして、もしかするともしかすると、こんなことを言ったらシマダヤとかに怒られるかもしれないが、冷麺をあまり食べなかったことで、僕の今夏の食欲は護られた部分があったのかもしれない、とも思う。ポルガの腹を壊すではないけれど、冷たい食べ物によって、恒温動物たるわれわれの、保たなければならない大事なバランスが崩れる部分が、ないこともない気がする。知らんけども。
 食欲は大丈夫だったが、身体が大変だった。その最たるものはなんと言ってもお盆休み期間中に発生した耳爆ぜなのだが、それ以前から、7月のスイミング回数が2回だったという時点で、なんのことはない、だいぶ参っていたのだ。本当に、近ごろの夏の暑さというのは、いったいなんなのだろう。人類の経済活動のせいで地球温暖化が加速しているのなら、その結果としてのこの異常な暑さの夏の期間、人々はあらゆる経済活動を停止し、服もろくに着ないで、ただセックスだけをしたらいいと思う。2ヶ月で世界はだいぶめちゃくちゃになるだろう。でもそれについては9月に入ってから考えよう。残りの10ヶ月で態勢を整えればいい。この2ヶ月間を、ちゃんと文明人として生きるのは、無理があるだろ。僕が綿棒を深追いさせすぎて外耳炎になったのも、きっとそんな衝動の発露なんだと思う。ルール無用のセックスワールドを夢見ながら、僕は耳の穴に綿棒を突っ込んでいたのだと考えると、いじましくて涙が出そうになる。でも実際に出たのは耳汁だ。アミノ酸的な、なんとも言えないにおいを発するやつ。
 耳鼻科通いは、先日の診療で無事に終了した。左耳の聞こえは、どこかで劇的によくなるのかと思いきや、知覚できないほどグラデーションで回復したようで、「治った……ん、だと、思う、よ?」みたいな、微妙な感じだ。前はこの位置からあれが見えたのに、みたいな、視覚のような分かりやすい指標がないので、これが従来通りなのかどうなのか、いまいちよく分からない。今回、俺の左耳の鼓膜には穴が開いているという衝撃事実を知ったことで、逆プラシーボ、逆プラシーボって要するに呪いということだが、その作用によって、変なコンプレックスを抱えてしまった感じはある。俺の左耳の聞こえが十全であるはずがないんだよ、だって鼓膜に穴が開いてんだもん、とイジけている。イジけているので、全力を出せていない。誰か更生してやってほしい。山下真司とかが熱血指導をしてくれたらいい。俺は今からお前たちを殴る! サウスポーの山下真司。そして左耳の鼓膜はいよいよ破裂する。
 えっと、なんの話をしていたんだっけ。そう言えば耳鼻科の最後の診察を受けた数日前、体中に発疹が起ったのだった。赤いプツプツが出るだけで、かゆみや発熱は一切なかったのだが、大いに驚き、すぐに点耳薬の投与をストップした。趣味的にも仕事的にもやけに薬剤に詳しいファルマンの話によれば、抗生物質がすぐではなく、投与から2週間くらいしてから抗体ができることでそういう症状が現れることはあるらしい。ただしこれの話のややこしいところは、この発疹が出た前の晩、晩酌で大量のシジミの酒蒸しを食べたという点で、僕は大好物なのに貝類に関してちょっとアレルギー的な気配がなきにしもあらずなので、そっちのせいかもしれないのだった。それで耳鼻科の医者に、発疹が出たので点耳薬をそこでやめたのだが、と伝えたところ、もう炎症は治ってるからやめて問題ない、発疹の原因は分からない、発疹の8割から9割は原因不明だ、という言葉が返ってきて、そのときにはもう発疹も引いていたので、まあそんなもんか、そんなもんだな、と納得した。ファルマンは家族の体調不良に関し、いつもとても派手な反応をし、それは冷たくされるよりもちろん嬉しいことではあるのだが、とは言え「騒ぎ立て」という表現が頭に思い浮かばないこともなく、本人と対話型生成AIの二人三脚で次々に繰り出される、発疹の考え得る要因の羅列よりも、この世の発疹の9割は原因不明、の一言のほうが、すとんと腑に落ちたりもする。もっともそれは結局のところ、「お医者様」の言葉だからか。たとえば僕が「寝れば治る」などと言っても、誰の臓腑にも落ちず、むしろ逆流して嘔吐することだろう。早く病院に行けよ。
 耳爆ぜ(外傷)と発疹程度でそんなことを言うなんて逆にめっちゃ健康だな、という話なのだが、数え年ではなく満年齢ではあるのだけど、言っても42歳なので、もしかするとこれが厄年ということなのかもしれないな、などと思った、今夏の体調不良だった。
 でも書き出しでも述べたように、そんな夏ももうおしまい。耳鼻科医のお墨付きも出たので、昨日の退勤後、満を持してプールに立ち寄った。記録によると8月7日以来、約1ヶ月ぶりのプールである。水着が毎回新しいのはいつものことだが、今回からは心機一転、ゴーグルと耳栓も新仕様となり、どうやら僕のプールライフはグローバル志向があるようで、9月から新年度に切り替わるらしい。新しい耳栓はたぶんこれまでよりも強固で、嵌めると館内で流れている音楽がほとんど聴こえなくなったので、それだけ穴をちゃんと塞いでくれているんだろうと思う。久しぶりの水泳は、夏場のブランクによるものだろう、だいぶ体が重たいというか、泳ぐという動作に対して距離ができてしまっている感があったが、定期的に通っているうちに、軽やかに気分よく泳げるようになるだろう。もちろん泳いだあとは、指導されたように軽く耳の入口にタオルをあてる程度にとどめ、そのあと左耳に違和感などは発生していない。よかった。本当によかった。
 体調不良もなくなり、プール生活も新年度になったので、それはもう必然的に季節も移ろったということだ。まだまだ気温が35度近くなるとか、そういうことじゃないんだ。陽を見ろよ。短くなっただろ。もう夏至から2ヶ月以上経ってるんだぜ。いつまでも夏気分でいるなよ。現実を見ろよ。2ヶ月間の獣欲の日々を終えて、これからはまっとうな社会を再構築していかなきゃいけないんだから。朦朧とした意識の中で、さんざん愉しんだだろ。最後は体調を崩すほどだっただろ。やりすぎだよ。これからは地に足のついた暮しをしよう。俺は水中で浮遊するけど。

2026年8月26日水曜日

パピロウ耳より情報


 帰省から戻ってきて10日ほど経ち、パピロウの耳は今どうなっているのか。大丈夫なの? ねえ、大丈夫なの? という大勢の人たちの心配の声が日がな耳に届くので、このあたりできちんと経過報告をしておくべきだと思う。そうすればこの耳に直接浴びせかけられる絶え間ない問いかけからも解放されるんだと思う。
 練馬の医師から「島根でも診てもらいなさい」と言われたこともあり、戻ってきて1週間後の土曜日、こちらの耳鼻科に行った。
 こっちは耳の不調で来てるんだからもっと声を張ってくれよ、と言いたくなるウィスパーボイスで喋る医師によると、「炎症しているし、鼓膜に穴が開いている」とのことだった。前者は判っていたことだが、後者は寝耳に水だった。この一週間、たしかに朝晩寝転んでファルマンに点耳薬を打ってもらっていたので、これがほんとの寝耳に水でやんすね、という、まさか最後にそんなオチがつくだなんて。
 「また掃除をするからなるべく早めに来い」ということだったので、週の半ばの今日、労働を定時で終わらせ、再び診てもらう。医師は前回よりも声がはっきりしていた。土曜日は開始時間の直後に行ったので、テンションが低かったようだ。医師に調子を訊ねられたので正直に答えたが、ここ2日くらいのところで、ちょっと状況が改善されたような感触はあった。医師が耳の中を確認すると、「たしかにだいぶ炎症は治まってる」とのことで、まだ聞こえに関して万全じゃない感じはあるが、少しずつ良くなっているようである。よかった。そして耳鼻科で万人が必ず言われる、「とにかくいじるな」を改めて厳命された。痛い目を見たばかりなので、その言葉はとても胸に響く。しかしプロフェッショナルの仕事といわれればそれまでだが、診療でやってもらった、耳の中を掃除したり、水を流したり、そしてそのあとを吸引したり、みたいな一連の施術は、ものすごい爽快感があったので、なんか100均のグッズとかを使って自前でこれに似たことができれば……、みたいなことを思ってしまう。この発想がダメなんだろう。本日の診察代は520円だったので、なにもなくても3週間に1回くらい来てこれをやってもらったらいいのかもしれない、とも思った。
 気になっていた鼓膜の穴については、「これは今回のことでできたものではない」という診断をされた。穴の感じが、フレッシュな感じのものではないらしい。子どもの頃は中耳炎だったので、ともすればその頃からずっとそうなのかもしれない。今回のことで左耳の聞こえに違和感は残っているが、それまでは日常生活でなんの不便も感じていなかったし、健康診断でも聴覚について指摘されたことはないので、それならそれでいいのかな、と思う。医師からも別に穴を塞ぐための処置みたいな話はされなかったし。そう言えばプールで耳栓を嵌める際、右耳はムヌッと平板に耳栓が収まるのに対し、左耳はたまにムキュポッと、挿し込んだとき空気が変な感じに移動するような感触があったが、そういうことだったのかもしれない。もともと左耳はウィークポイントだったのか。そこへ綿棒をガシガシやったのか。それはよくない。それはよくないよ、爆ぜるよパピロウ。
 それと「水泳が趣味なんですが」という話を切り出したところ、医師は少し嫌そうな顔をしたあと、「必ず耳栓をしてください」と言った。そうなんだ。やっぱり耳のためには耳栓をしたほうがいいんだな。これまでも着けてはいたが、もう少し本格的なやつを導入してもいいかもしれない。あと泳いだあとはなんか処置をしたほうがいいのかと訊ねたところ、「なにもするな」という回答だった。入り口をちょっと拭うくらいで、くれぐれも中まで拭こうとしないように、とのこと。肝に銘じよう。ちなみに、まだ泳ぐなとは特に言われなかったが、自主的にもうしばらくはドクターストップということにしておこうと思う。朝晩ファルマンに点耳薬を打ってもらいながらプールに行ったら、間違いなくキレられる。もっとも今現在、あまり行きたい意欲も湧いていない。8月は結局、2回しか行かなかった。あ、7月も2回だ。水泳が趣味の人は、7月8月は逆に水泳をしない。そういうものかもしれない。
 まあとにかくだんだん治ってきているので、みんなどうか安心してほしい。だからもう左耳の近くでグニャグニャ言わなくていいんだよ。

2026年8月22日土曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 6日目 8月15日


 最終日は本当に帰るだけである。去年は大阪万博が繰り広げられる中、宝塚の手塚治虫記念館に寄った。今年は、出発直前にほんの少しだけ、滋賀県の比叡山延暦寺に行くのはどうかという話が出たりもした(僕が出した)のだが、連日の行動で疲労が蓄積していたので、とにかく帰ろうということになった。ちなみにだが初日、豊川で今度こそ豊川稲荷に行くという案もあったのだが、それも僕の耳の爆ぜのこともあり、流れた。結局、豊川稲荷も、伊勢神宮も、比叡山延暦寺にも行かない、神社仏閣に縁のない旅行だった。あ、ポルガが靖国神社にだけ行ったのか。もっとも御朱印帳はこの旅行に持ってこなかったらしい。たぶん部屋で紛失しているんだと思う。出雲大社、厳島神社、鶴岡八幡宮と、けっこうメジャー所の御朱印が連なっているのに。
 ホテルを9時半ごろに出たので、夕方になる前に帰れた。次女一家は土曜日である今日あたりに兵庫に戻るのかしら、もしかしたらどこかで上りと下りですれ違うようなタイミングだったりして、などと思い、途中のサービスエリアで訊ねてみたら、戻るのは明日で、今日はまだ普通に実家にいるという。めっちゃ長くいたものだな。自分たちが5泊6日で帰省したのに、それを経てもまだ継続して実家にいるってなんかすごいな、と思った。というわけでせっかくなのでおみやげを持って実家に顔を出した。この際、この数日だけ帰省している次女の夫と、少しだけ顔を合わせた。
 晩ごはんはさすがに作る気が起らず、スーパーで買ってきた鮨で済ませた。夜は倒れるように寝た。車が運転できなくなるかもしれないという耳の危機感を常に抱きながらの旅程だったので(といいながら酒は毎日それなりに飲んだが)、いつもより疲れた気がする。なんとか帰ってくることができた安心感と、実家はもちろんホテルのベッドも敵わない、自分の寝床の寝心地の良さに感動を抱きながら、泥となった。今年もおつかれさまでした。

2026年夏の自家用車横浜帰省 5日目 8月14日 後編


 鳥羽水族館と言えば、なんと言っても現在日本で唯一ラッコを飼育している水族館として名高い。北海道の太平洋側沿岸では野生のラッコが高級魚介類を食べるため地元の漁師は害獣扱いしているという話もあるが、それはそれとして、飼育下のかわいらしいラッコが見られるのは日本でここだけだし、さらに言えば諸般の事情により、現在ここにいる個体がいなくなったあとは、再びラッコを飼育するのは難しい情勢であるともいわれる。ラッコに対して特別な思い入れがあるわけではなかったが、そういうことを言われると見ておきたくなるのが人情であろう。というわけで運よく三重県南部へのフェリー航路を見つけた瞬間、この計画は一気に湧き上がったのだった。
 駐車場待ちの列はあったが、鳥羽水族館へは、15時前に入ることができた。閉館は17時半なので、それなりにしっかりと館内を回る時間はある。とりあえず主目的であるラッコを済ませておこうと、案内表示のあるほうへ足を進めると、ラッコを1分間眺めるための行列というのがあって、列の最後で係員が「40分待ち」というプラカードを持っていた。ちなみに代表者だけでの順番待ちは禁止だという。はるばる水族館に来て、他のなにも見ないまま、いきなりただ40分待つのはさすがにつらすぎるので、あとでまた様子を見にくることにして、先に他のエリアを見て回ることにした。とにかくラッコが有名だけど、大きな水族館なので、もちろん他にもいろいろいるのだ。巨大なウミガメや、エイ、オットセイなど、いろいろ見応えがあった。変な生きものでまとめた部屋に、こんなのがあったので、南国の海を再現したきれいな水槽とかは撮らなかったくせに、思わず写真を撮った。



 そうか、昼は縮こまっているのに、夜は40cmほどに伸びるのか。そうかそうか。
 あとなんと言ってもよかったのは、セイウチだ。セイウチは3頭がいて、オスの1頭とメスの2頭が別々の場所で暮しているようだったが、そのオスの1頭がすごかった。どうすごかったかと言えば、なんか気が狂ったような動きをしていたのだ。セイウチってほら、顔がだいぶグロテスクだろう。なんか前世の罪とかでこんな醜い生きものになってしまったのかな、ということを思わせるビジュアルをしている。そしてやけに巨大である。そんな生きものが、たぶん本人にとってはだいぶ狭いに違いない水槽の中で、鬼気迫る感じで何度も何度も身体を揺らし、背負わされた怨嗟をすべてぶちまけようとするような、そのやるせなさに、家族全員、一気に心を鷲掴みにされた。とにかく巨大な目がぎろぎろしていて怖い。ガラスの前に集まった子どもたちを睨む瞳には、怨みがこもっていた。僕はその様子を見て、こいつは茜丸だと確信した。茜丸は令和8年現在、セイウチをやっているのだ。火の鳥の怒りはしつこく、やはり人間には二度と生まれ変われないのだ。ちなみに家族の中でいちばん彼に心を奪われたのはファルマンで、彼が全身を使って放つ激しい哀しみに、人間社会の中で同じ種類の生きづらさを日々味わっているらしいファルマンは、同じバケモノ同士、深い共鳴をしたらしかった。だいぶ長い時間、われわれはセイウチの水槽の前にいた。
 それからラッコの列の前をふたたび通り、やっぱりまだ40分待ちだったので、魚のゾーンを眺めたり、おみやげを買ったりして過す。そうこうしているうちに閉館時間がじわじわと近づいてきて、みたびラッコの列を確認すると、今度は30分待ちになっている。少し減ったが30分かー、うーん、どうしよう、とりあえずもういちどセイウチを見にいこう、という話になって、おかわりでセイウチの水槽まで行ったら、ちょうど飼育員の女性が餌をやって、ちょっとしたショーみたいなものをするところだった。飼育員から小魚をもらったセイウチは、きびきびした動きで水中を泳ぎ、さらには彼女の指示で扇状の前肢をパーンと打ち合わせると大きな水しぶきが起り、それは水槽の縁を越えてわれわれ観客のほうにまで降りかかり、子どもたちがキャッキャと騒いだ。たぶん初見がこの場面であったらば、われわれはセイウチのことを、大きな体で見事な芸をする頭のいい生きもの、くらいの印象しか持たなかったろうと思う。でもそうじゃない。われわれは先ほどの、ビジネスじゃない時間帯の彼の本性を見ている。それなのに今は完全に割り切ってショーをやっている。だから余計にさっきの姿がおそろしく思えた。セイウチの闇の深さ、すっかり虜になってしまった。
 そのあと、ラッコはもういいかとあきらめかけていたのだが、通りかかったら列はいよいよ短くなっていて、係員に訊ねたらまだ並んでも大丈夫とのことだったので、せっかくだから並んでその御姿を拝むことにした。まあ当初の目的がそれだったからな。というわけで20分ほど並んでありついたラッコはどうだったかと言うと(ちなみに1分間というのは水槽の最前列で見られる時間であり、実は並んでいる途中からまあまあ見える)、う、うん……、という感じで、まあ要するにマツタケとかツバメの巣みたいなもので、とにかく希少価値ということなのだった。見応えという意味では、セイウチの十分の一もなかった。もっともラッコに罪はない。すべてわれわれ人類が悪い。そしてセイウチはそれをちゃんと怨む。だからいい。
 そんなわけで、ほぼ閉館時間までいて、しっかり堪能した鳥羽水族館だった。フェリーに乗るところから、無事に予定通りにいくか心配だったが、ラッコを肉眼で目にするという体験も含め、できてよかった。
 そのあとは車に乗り込み、ホテルまで移動する。ホテルは三重県でいうと北部ということになると思われる、鈴鹿に取った。伊勢周辺のホテルは高かったのと、翌日の移動を少しでも減らすことを考えての鈴鹿だったが、いま改めて地図を眺めると、鈴鹿なんて少し戻るような感じがあるので、津とか亀山、あるいは伊賀とかのほうがよかったんじゃないかな、と思う。まあ別にいいんだけど。ホテルに着いた頃にはすっかり暗くなっていて、ここはキャッスルイン豊川と違って基本的に寝るだけのホテルだったので、ビールを飲みながら予定通り「Tシャツが乾くまで」をファルマンと観たあとは、すんなり寝た。

2026年夏の自家用車横浜帰省 5日目 8月14日 前編


 起きてニュースを見たら、千葉県がすごいことになっていた。なにかが少し違えば、それは神奈川県の横浜市だったかもしれない。昨日の雷雨はたしかに激しかった。千葉にその本体があって、当地ではあれがずっと続いたのだろう。おそろしい。
 さて2026年の夏の帰省も、今日からいよいよ復路となる。この日はこの日で予定を詰めていたため、わりと早めの出発となった。母と祖母に見送られ、8時半くらいに実家を出た。
 神奈川県を出て静岡県、静岡県から愛知県と、いつも通りにルートを進むが、豊橋市あたりからいつもと違う道を進む。岡崎市のほうではなく、田原市の方面。それはつまり、渥美半島を行くということである。渥美半島、分かりますか。愛知県の、クレーンゲームみたいになっているふたつの半島、西にあるのが知多半島、東にあるのが渥美半島。それを突端に向かってグングン進んだ。半島の先っぽなんかに行ってどうすんだ、と言うと、つまりこういうことである。


 渥美半島の先っぽ、伊良湖港という所から、対岸の三重県鳥羽港にはフェリーが巡航しており、これに乗れば愛知県と三重県を陸路でぐるっと回らずとも、三重県の南部にワープ(所要時間60分)できるのである。もちろん車ごとである。画像は他ならぬ伊勢湾フェリーからいただいた。それで、三重県南部へと進出したわれわれは、2年前にたどり着けなかった伊勢神宮にとうとう行ったのか、と言えばそうではない。目的地は鳥羽水族館である。
 旅の計画を練っていたとき、地図を眺めていて、ここに………とフェリーの航路を示す線があるのを見つけたときは、テンションが上がった。渥美半島といういつもと違う道も愉しいし、フェリーに車ごと乗るのも愉しいし、しかも鳥羽水族館に行けるのだ。関東では思い出巡り以外に行きたい場所がなく、自分の好奇心の低下におののいたが、実はこの旅のクライマックスには、こんな隠し玉を用意していたのだ。
 というわけで伊良湖港を目指して車を走らせる。初めて走る、そしてたぶんこれっきりだろう渥美半島の風景は、なんか白昼夢のようだった。海沿いの道のはずなのに海はほとんど見えず、赤土の田園ばかりが続く。ガソリンスタンドとコンビニはあるが、スーパーマーケットがぜんぜん見当たらない。また真夏の真っ昼間なので当然だが、通行人はぜんぜんいなかった。そしてそんな風景が、だいぶずっと続く。三重県南部に行こうとしているのだから仕方ないが、実家から伊良湖港までは4時間半くらいかかった。出発前のイメージでは、これはだいぶ時間の短縮になるなあ、車内音楽のプレイリストはだいぶ余ることになるんじゃないかなあなどと思ったが、どっこいそんなことはなかった。日本は広い。愛知県の、クレーンゲームみたいになっている部分は、けっこう長大なのだ。
 ようやく着いた伊良湖港の周辺は、恋路ヶ浜などという地名があったりして、急にリゾートっぽい、こじゃれた雰囲気を放っていた。ここがロマンチックな立地なのはまあ分かるが、ここに来るまでがちょっと大変すぎないか、と思った。駐車場に車を停め、フェリーの切符売り場に行くと、これに乗れたらいい、乗車数オーバーで次のになったら少し嫌だな、と思っていた便に乗れるということで、ほっとした。しかも鳥羽水族館との提携チケットということで、だいぶお得に双方のチケットを入手することができたので助かった。
 かくして車ごとフェリーに乗り込む。たしかこれって前にもやったことがあったよな……、と思い、記憶を探ったのだが、直島、大久野島、そして宮島、どれのことを思い出しても、車ごと乗る理由が見つからず、帰宅後に日記をきちんと確認したら、やっぱりやっていなかった。フェリーに自家用車ごと乗っている人を見て、自分がしたような気になっていただけだったのだ。なので実体験はこれが初めて。なかなか愉しかった。タイヤが動かないようストッパーみたいな器具を置くんだぜ。かっけー。車から降りて、デッキに上がる。船はそれからわりとすぐに出航した。出航するときの勢いというのはわりとすごく、飛行機の離陸のそれを一瞬だけ連想して心がざわついたが、これは空中ではなく海上なのだと考えると、それはifの世界で機上の人となっている僕に対して圧倒的なアドだな、と安心した。船内はそこまで人が多くなく、ボックス席も確保できたが、結局ほとんど外にいた。


 デッキで海を眺める僕とポルガ。日本地図で見ると、渥美半島の先っぽと三重県は、伊勢湾をほとんど塞ぐかのように接近しているように見えるが、実際に海に出てみるときちんと海なのだった。じゃあ太平洋とかマジででけえじゃん、と3日前のペリーにも思いを馳せる。ちなみに今回、ペリーとフェリーが旅の予定に組み込まれていたため、計画を話し合う際に聞き間違えてややこしい、という事態が何度か発生した。
 甲板にも少し出た。陽射しがすごかったので他に誰もいなく、われわれも短時間でまたデッキに降りたのだが、少しだけ写真を撮った。


 これは甲板に立っている、国道を示す標識。渥美半島で走ってきた国道42号線は、なんとこのフェリーの航路も含め、三重県まで続いているのだった。道という概念が根底から覆されるウルトラCの荒業である。わざわざ写真を撮ってもらったのは、42がちょうど年齢であることと、またその下の259は語呂合わせで地獄とも読め、42歳で地獄かー、なるほどなあ、と思ったからで、ポルガにお願いして、1年前の火の鳥のモニュメントと撮ったやつと同じ感じの構図で撮ってもらった。パピロウ、あなたはもう42歳で、東京へ行ってもかつての若かった頃の思い出を巡ることしかできない地獄に足を踏み入れてしまったのよ……、そしてそれはこれから死ぬまでずっと続くのよ……。
 そんなこんなしているうちに、1時間の船旅は終わりに近づき、車に乗り込むようアナウンスが流れた。渥美半島を走っているときは、こんなんワープでもなんでもねえな、と思ったが、海上でリフレッシュして、そして我が身は陸路ではなかなか来られない三重県南部にあるのだから、やっぱりこれは一種のワープかもしれないな、と思った。ちなみにだが、横浜と東京で頑なに公共の乗り物に乗らなかった僕だが、こうしてフェリーには乗ったわけで、これにより僕がこの1年間で乗った公共の乗り物はフェリーだけ、ということになった。これはなかなか特殊性が高くていいと思う。
 降り立った鳥羽港から鳥羽水族館はだいぶ近いようだぞ、と地図を見て思っていたが、近いもなにも、目の前だった。わー、鳥羽水族館だー!
 というところで後編に続く。この日はさすがに前後編で終わると思う。

2026年夏の自家用車横浜帰省 4日目 8月13日


 盛りだくさんだった3日目に対し、実家のほぼ最終日となるこの日は簡素なものである。
 ただし子どもたちはそうではない。子どもたちは、いとこらと4人で、よみうりランドに行ったのだった。よみうりランドというメジャーな遊園地が、実家から意外と近いのだということを、今回初めて知った。母によると、僕も行ったことはあるらしい。記憶はぜんぜんない。天候が果たしてどうなのかという不安はあったが、とりあえず大丈夫そうなので、開園時間に合わせるように、途中でいとこらをピックアップして、連れていった。あとはもう夕方の迎えの連絡が来るまでノータッチである。楽になったものだ。来年になれば姪が免許を取っているかもしれず、そうなれば送迎さえいらなくなる。楽すぎるだろ。遊園地そのものにはなんの興味もなく、ぜひ子どもたちだけで行ってくれたまえ、という感じだったが、夏季限定のプールには興味が湧いた。なので送迎の際にプールの様子を窺うことだけでもできないかと思っていたのだが、もちろんそんなことはぜんぜんままならなかった。昨日に続いて、やけにプールの様子を窺いたがる生きものである。「プール覗き界隈」と言うと聞こえが悪いが、有り体に言えばその通りである。でもそれは若い女性の露出過多の濡れた肉体が見たいという、それももちろんあるが、ただそれだけの理由ではなくて、要するに僕は、プールの雰囲気が純粋に好きなんだと思う。
 子どもを送ったあとの帰り道で、ファルマンとコインランドリーに立ち寄った。われわれの帰省によって洗濯物が多いのに天気がぐずついているので、母から乾燥を頼まれたのである。晴れ間がないことで知られる冬の山陰でも、なんだかんだでわが家はコインランドリーを利用せずに暮しているので(洗濯機に乾燥機能もないのに)、なんだか新鮮だった。コインランドリーと言えば、世間で大いに盛り上がっている、われわれ夫婦も愉しく観ているドラマ「Tシャツが乾くまで」を連想せずにはおれず、ドラマに出てくるコインランドリーの100倍くらい野暮ったい店で、少しだけショートコントのように「Tシャツが乾くまで」ごっこをした。愉しかった。この日は木曜日。明日は絶対にホテルの部屋のテレビで放送を観なきゃね、と話した。
 大人だけの昼ごはんに関してはなんの話もしていなかったが、ざるそばが食べたかったので、スーパーでそばと天ぷらを買って帰った。そして午前中だけのデイサービスから帰ってきた祖母も含め、4人で天ざるを啜った。おいしかった。
 午後は、時間があるので今晩の献立として餃子でも作ろうという話になり、それにあたって、いい機会なので僕が子どもの頃から使っているホットプレートをさすがに買い換えようということになって、3人で電器店とスーパーに行った。帰宅して餃子の餡を作っていると、とんでもない勢いで雨が降ってきて、ピカッと光ると、その直後に轟音が響いた。いきなり、ものすごく近い場所に雷雲が湧いたらしかった。果たして子どもたちは大丈夫なんだろうかと不安になったが、特に本人たちから連絡はなく、まあ屋外の遊行施設なのだから、本当に危険なときは係員がいいようにしてくれるだろう、などと考え、餡を作り終えたあとはのんびりと過した。雨はずっと降り続いたわけではなく、雨雲が去ったあとはスーッと晴れたり、しかしそのあとも急に豪雨になったりと、そんな感じだった。
 やがて連絡が来たので、濡れた子どもを車に乗せるの嫌だな、と思いつつ、タオルを大量に携え、迎えに行く。子どもたちは「びしょ濡れになったけどもう乾いた」そうで、たしかに少し湿っている程度だった。それはそれで嫌ではあったけれども。遊園地は、そんな天候もあってか、いとこの話によるといつもより空いていたそうで、存分に愉しめたらしい。ならよかった。
 というわけで、晩ごはんはまた一族が集結し、餃子。僕が餡を作った(包むのは僕が迎えに出ていた間にファルマンがやった)餃子は、当然ながら大好評だった。僕の餃子はいつだって異様なまでに美味しいのである。食べ終えたあとは、8月13日ということで、庭先で迎え火を焚いた。今年は一族が全員集合でできたので、よかったんじゃないかと思う。
 そのあとは恒例のような、でも去年はたしかやらなかったような、数独の同じ問題を全員で一斉にやる、というのをやった。いつの間にかできた変な行事。順位は、1位が姪、2位が叔父、3位がポルガだったか。僕も、アルコールが入っているし耳から汁が出ているという致命的なハンデを背負いつつも、なんとか解ききった(だから実質は1位みたいなもんだと思う)。ファルマンは途中で放棄し、ピイガは最後まで奮闘していたが、最終的に鼻血を出して泣いた。ものすごい負けん気だと思った。
 最後に祖母も含めてみんなで集合写真を撮り、お開きとなった。一族のお盆の集い、というのがしっかりできた感じで、とてもよかったと思う。

2026年8月21日金曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 3日目 8月12日 完結編


 あれこれと寄り道をしたおかげで、中村橋へ向けての早すぎた出発は、気付けばわりとちょうどいい時刻になっていた。しかし中村橋に着いたはいいが、車をどこへ停めたものかとあぐねていたら、改札を出てすぐ正面の、高架下にあるSEIYUに、専用の駐車場があることが判り、そこへ駐車した。1000円以上の買い物をしたら1時間無料だという。中村橋駅直結と言ってもいいSEIYUに車で来る人はほぼいないようで、駐車スペースは5台ほどしかなかったのに、ぜんぜん空いていた。駅前なのになんだか贅沢な土地の使い方だな。たぶんほとんどの人の目に入っていないんだと思う。車で中村橋駅に来た人の目にだけ映る駐車場なんだと思う。視覚ってそういうものだ。
 改札の前で待っていると、ファルマンから「そろそろ着くよ」というメッセージが届き、電車が駅に到着した。人がわらわらと出てくる中に、ファルマンとピイガ、そして友達一家がいた。友達と、その娘ふたり(大1、中2)と息子(小1)である。友達と息子には去年も会った。娘ふたりに関しては、果たして何年ぶりだろう。上の子を最後に見たのは、中学受験とか言っていた頃ではなかったろうか。というか、友達というのはわれわれ夫婦の大学時代の友達であり、つまりわれらの出会いというのが、他ならぬ大学1年生の頃だったのだ。娘がその年齢なのだ。その事実をきちんと噛み締めると、咥内に、甘すぎて苦くさえある腐りかけのトロピカルフルーツの果汁みたいなものが溢れ出る感じがした。新生児の頃から知っている友達の娘が、所沢校舎で肥大化した自意識に振り回され退廃していたあの頃のわれわれ(僕だけかもしれない)と同い年だなんて、なにか間違っている気がする。本当なのだろうか。君は本当にあの頃のわれわれと同世代なのか。本当は違って、口を開けばプリキュアの話しかしないんじゃないのか。いつまでも無垢で幼いままなんじゃないのか。まぶしい若さに対峙した気恥ずかしさから、ほとんど会話ができなかったので(大人としての余裕のなさ!)、いまだその可能性もわずかに残っている。中学2年生の次女は、ピイガと1学年差ということが信じられないほど成長していて、最初どちらが長女でどちらが次女か判らなかった。友達いわく反抗期に入っているとのことで、たしかに素っ気ない感じがあったが(前日の用事で疲れてもいたらしい)、そうは言ってもこうして親の友達の一家との交遊に参加しているのだから、体と心の成長がマーブル模様の、とても神々しい瞬間を目の当たりにしているのかもしれないな、と思った。息子は相変わらず人懐こくて、近付いてくるなり「ねえ、耳が爆発したの?」と、まっすぐな目で訊ねてきた。ファルマンが、僕が飯田橋にやってこない理由を述べる際、面倒だったので「運転中に耳が爆発した」と説明したらしい。間違ってはいないが、特撮好きの小学生男子がそれを聞いたら、いったいどう思うと思うのか。外からの見た目的には特段の異常がない僕の耳は、きっと間違いなく彼の期待を裏切ったろうと思う。そのお詫びというわけではないが、彼に向かって「おじさんがお菓子を買ってあげるよ」と、少し物騒な文句で誘い、SEIYUに入店する。そして駐車券のために、お菓子やらゼリーやらを買って渡した。ド金髪で、靴が左右で色違いで、手作りのキャスケットを被って、お菓子を買ってくれたおじさんのことを、彼はどう思っただろう。ちなみにこの日僕は「virility!」Tシャツを着ていたのだが、これは自分でアイロンプリントをしたもので、意味は「生殖能力」である、と友達に解説したところ、友達は娘ふたりにそれを説明して笑っていたので、ざっくばらんな親子関係だな、と思った。ファルマンはたぶん、大学時代の男友達の着ているTシャツの英単語が生殖能力という意味だということを告げられても、娘には伝えないと思う。人生でそう何度もある場面ではないので、確証はないけれど。
 別れ際、友達は別の場所に自転車を停めていたので取りに行き、娘たちと少し話した。かつて自分たちは中村橋に住んでいたのだと伝えると、長女は少し驚いていた。東日本大震災のときは、光が丘の、先ほどとうとうたどり着けなかったコーポに、たぶん震災の翌日だったと思うが、僕の実家の面々と、この友達一家の両方がやってきて、だからそのとき撮った写真には、3歳のこの長女と、2歳の僕の姪と、そして0歳のポルガという、珍しい3ショットのものがある。人生にはそんな瞬間があったのだ。
 一家に見送られ、車に乗り込んだ。次に彼らと会うのはいつのことか。ちなみにだが、練馬時代の日記に「いつもの一家」として登場するこの夫婦は、実は数年前に離婚している。人生というのは実におもしろいものですね。
 帰宅すると、ポルガは既に戻ってきていて、興味のあるスポットを無事に巡ることができた喜びから、少し昂揚している様子だった。靖国神社で買った冊子などを見せてきたので、どちらかと言えば、やっぱり嫌だな、と心の中で思いつつ、パラパラと見るフリをした。
 そんな感じの、8月12日の記述が、これでようやく完結した。

2026年8月20日木曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 3日目 8月12日 後編


 プールの建物を出たあとは、隣の図書館にも入り、そこでしばらく時間を過した。光が丘の図書館はだいぶ大きい。図書館がその土地の文化度を反映するとは限らないけれど、島根県では新刊書店でも目にしないような雑誌が配架されているのを見て、ほほー、と思った。ちなみにだが、練馬区の人口、76万人。島根県の人口、62万人だそう。え、面積? 面積は練馬区が48平方キロメートル、島根県がその約140倍の6700平方キロメートルだよ。ただし島根県民は平均身長が70mくらいなので、体感の人口密度としては同じくらいじゃないかな、と思う。
 それにしても旅の記録のような文章を書いているのに、あまりにも写真がないものだ。普通こういうのって写真を挟むものじゃないのか。なぜ急にそんなことを言い出したかといえば、図書館を出たあたりで、不意に清掃工場の煙突の写真を撮ったからだ。


 なぜ撮ったのかは定かではない。高かったからかもしれない。ちなみに150mだそう。島根県でもなかなかここまでの高身長の人はいない。ちなみに撮らなかったが、歩道橋を挟んでこの対面には、ポルガが誕生した光が丘病院がある。ポルガの出産時は日大光が丘病院だったが、そのほぼ1年後の2012年3月末をもって経営悪化のため運営を終了し、それ以降は公益社団法人が運営している。懐かしい。いま思えば病院の中に入り、産婦人科をウロウロしてもよかったかもしれない。本当に普通に通報されたかもしれない。
 それからさてどうしたものかと思案し、ファルマンに連絡を取ってみる。そこで練馬に戻ってくる時間の目処を聞いたので、まだ早かったけど、IMAの周辺をこれ以上さまよっても仕方ないので、とりあえず車を出すことにした。
 それでMapの目的地に、集合場所である「中村橋」と打つため「な」と入力したところで、俺の優秀なスマホはすぐさま「成増」を候補に出してきたので、わあ、となって、せっかくだから成増行っちゃいますか、とまた思い出のことでテンションをブーストさせた。実はIMAの駐車場に停める前、光が丘公園の外周の道を走っていたときに、ああこれは、成増が職場だった頃、光が丘公園を通る際に使っていた出入口ではないか、と思うスポットがあったりして、成増にも少し思いを馳せていたのだ。なので、せっかく車だし時間もあるのだから行ってしまえ、という感じで、板橋区へと渡り、成増駅まで行った。光が丘公園と成増駅を繋ぐ道は、懐かしいような、あまり記憶にないような、微妙な感じだった。自転車で疾走していたから、あまり景色に見覚えがないのだと思う。成増駅は、きれいになってからいちどだけ行ったことがあった。あれはいつのことだったろうと日記を探ったが、うまく出てこなかった。まあ、そのうちおもひでぶぉろろぉぉんでたどり着くだろう。成増駅は、車が停められそうな場所がぜんぜん分からなかったので、ロータリーから外観だけ眺めた。面影が残っている部分と、ぜんぜん記憶と合致しない部分があり、でも僕と成増駅って、通っていた当時からそんな距離感だったよな、などと思ったり、じんわりした感慨に耽った。やっていることが本当に老境。なんだ、じんわりした感慨って。ちなみに成増と言えば、2011年3月11日の午後2時46分、僕はここにいたのだ。駅の建物全体がゆらゆらと気持ち悪く揺れ、店の本という本が床に落ちたのを覚えている。そして店長の山下さんが「とりあえず帰って家族の様子だけ見てこい」と言ってくれたので、光が丘公園を突っ切って慌てて帰ったのだった。光が丘と成増の記憶は、どうしたって東日本大震災の記憶になってくる。
 とにかく久しぶりに来れてよかった、と思いながら、今度こそ目的地に中村橋と入力し、車を走らせる。しかし思い出乞食はまっすぐ進めない。指定された道を走っていると、光が丘公園の裏手あたりで、ここは当時住んでいたコーポに向かう道ではないか、という風景を発見したのである。その住まいは光が丘駅から徒歩15分くらい離れていたので、こうして車でなければ、わざわざ駅から歩いて、思い出探訪のためだけには行けない場所である。時間はまだある。行くっきゃない、とハンドルを切る。しかしうっすらした記憶しかなくて、たしかこっちのほう、という感覚だけが頼りだ。15年前の住まいの、毎日通った道を、こんなにも忘れるのか、とびっくりする。住所を覚えていれば入力するのだけど、それもまた覚えていない。日記を日々どれほどせっせと書いていても、人生というものは、本当にさらさらと手のひらからこぼれ落ちてゆくばかりで、たまたま残った一滴程度の記憶しか残らないのだな、と切ない気持ちになる。ブックオフやピザーラがあって、絶対にこのあたり、このあたりの住宅街を入っていったほうなんだよ、と思うのだが、どうしてもたどり着けずにホテルカデンツァやガスタンクのある大きな道に出てしまう。それをまた戻って、ということを2回繰り返したが、結局あきらめた。もしかするとあんなコーポなんて本当はなかったのかもしれない。たまたま繋がった並行世界のコーポだったのかもしれない。そういうのって、洋館とか、もっとファンタジックな施設で起る現象かと思っていた。すごく普通のコーポだった。更新料とかも払ったと思う。並行世界なら払わなきゃよかった。
 思い出記録のタガが外れた。長すぎる8月12日の完結編へ続く。

2026年8月19日水曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 3日目 8月12日 中編


 飯田橋へは行かないことにした。やはり車で行く場所ではないし、あざみ野から練馬まで車で来て、練馬の駐車場に車を停め、そこから鉄道で飯田橋に行き、また練馬に車を取りに戻ってきて車で帰るというのは、客観的に見てあまりにも阿呆らしい。そもそも僕は本当に公共の乗り物に乗りたくないのだ。
 というわけで、ファルマンには行かない旨を伝えた。どうせ一同は練馬に戻ってくるのだから、向こうの一家の子どもたちはそのときに見られる。それでいい。実際、耳の不調による精神的ダメージにより、飯田橋の街巡りは体力的に厳しい感じもあった。
 というわけで、練馬でひとり、ぽっかりと自由時間ができてしまった。うひゃあ。しかも車だ。どこへでも行けるぞ。ひとりテンションが高まった。それで思わず試しに、本当に試しに、所沢なんかをGoogle Mapの目的地に設定してみる。45分くらいと出た。十数年ぶりのプロペ通りと決め込もうか。プロペ★パピロウ、プロペ通りを凱旋(ファルマン通りもついでに遊行)。しかしさすがに遠いか。ファルマンたちの飯田橋がどのくらいで終わるのか予測がつかないので、あまり離れるのもよくない気がする。
 そのように考えたとき、目的地は自ずと、光が丘ということになった。もっともこれは当初の僕の目論見であった。今日会っている友達一家の最寄り駅は光が丘であり、俺はもう落ち合う場所はそこでいいんじゃないか、光が丘公園やショッピングセンターでいいんじゃないか、と思っていた。それは言うまでもなく、僕自身が思い出巡りの目的で光が丘に行きたかったからなのだが、冷静に考えたら、向こうの一家からしたらそんなの日常すぎてぜんぜんおもしろくないだろう(だから飯田橋に行った)。だとすればやっぱりこれは千載一遇のチャンスだと言える。ちゃんと一堂に会してたら、光が丘の目はないのだ。僕ひとりだから、自由に光が丘に行って、思い出巡りができるのだ。
 というわけで練馬から光が丘方面に車を走らせる。道中、氷川台とか平和台とか、そのあたりの見覚えのある道なんかもあって、わあ、となった。練馬時代のわれわれの住まいは、中村橋→平和台(氷川台)→光が丘という具合に変遷したのだった。本当に、東京に来るたびに、思い出巡りしかしないな、このおじさんは。
 かくしてたどり着いた光が丘は、車で来たのは初めてだったので、なんだか新鮮な感じがした。車と徒歩だと、見える世界がぜんぜん違う。ショッピングセンターIMAの駐車場に車を停めた。IMAに駐車場があるなんてこと、当時はまったく意識していなかった。車を降りて店舗に出ると、IMAは変わっていなかった。基本的に変わっていなかったが、ちょうど改装前だそうで、売り尽くしセールなどしていた。これから変わるらしい。お昼ごはんのことを意識しつつ、店内を眺めて回る。IMAは大きい。練馬区の団地の中に、その周辺の人々にだけ向けた感じで建っているのに、普通に田舎のショッピングモール以上の規模だ。人口……、と思う。IMAは西武系のゾーンと、隣り合って別のショッピングセンターのゾーンに分かれていて、それはいまイオンになっているのだけど、そのイオンの看板を見た瞬間に、違和感を覚え、われわれが住んでいた頃は絶対にイオンじゃなかった、イオンじゃなかったけど、じゃあ果たしてなんだったんだっけ、ジャスコだっけ、いや、そうじゃない、えっと……、と記憶を探って、それがダイエーであったことを思い出した。ダイエー! 中村橋のコモディイイダもなかなかだったが、光が丘のダイエーもまた、記憶汁みたいなものがドバドバとあふれ出る感じがある。思えば東日本大震災のとき、われわれは光が丘在住で、ポルガはまだ生後半年にもならず、放射能汚染だなんだと世間が騒ぐ中、ダイエーには九州産の野菜が充実していて、ああありがたいと感謝しながら買ったものだった。イオンの看板を眺め、そんなことを思い出した。なんだろう、俺は。元島民が軍艦島に来ているのか。昼ごはんは、サイゼリヤがあったので喜んで入った。周りの席の人たちは、みんなワインを飲んでいた。そうか、車社会じゃないから、真っ昼間からワインを飲んでいいのか。そう言えば僕も当時、道をブラブラしながら缶ビールを飲んだりしていた。車と電車、それぞれの身軽さがある。うらやましく思いながら、ちゃんと食事だけして店を出た。
 それからどうしたかと言えば、なんとプールに行った。光が丘公園内に実はあったのだということを、ここ数年で初めて知ったプール。当時それを知っていたり、あるいは今も練馬周辺に住んでいるifの世界線では、常連になっていたかもしれないプール。チャンスがあれば、雪辱ではないけれど、なんかしらの気持ちを満たすために、ぜひ行きたいと思っていた。それで実は、プール道具一式をしっかり携えてきていた。IMAを巡っていたときも、サイゼリヤでごはんを食べていたときも、実はプールバッグを持っていたのだ。ところがこれがとても切ない話なのだけど、ほら、僕って記憶汁とともに耳汁もドバドバ出てる人じゃないですか。それで午前中の耳鼻科で診てもらった際、「ちなみに僕は水泳が趣味なのだけど、水泳はしてもいいのか」と訊ねたところ、「治るまではダメ」ときっぱり言われてしまい、光が丘のプールで泳ぐという希望は掻き消えてしまったのだった。そんなはっきりとドクターストップがかかっているのに、じゃあどうしてプールグッズをわざわざ車から持ち出したのかと言うと、泳がないまでも、スイムウォークだったり、あるいはもうプールサイドに立ってプールの雰囲気を味わうだけでもいいから、ワンチャン準備だけはしておこう、という気持ちからであった。いったいどういう種類の執念なのかと我ながら思う。それで本当に、プールの入っている建物に入館し、プールは地下にあるということで階段を降りたら、プールの様子が見学できるエリアがあったので、そこのベンチに座り、しばし眺めた。だいぶストイックな感じの、こじんまりとしたプールで、夏だから盛り上がっているような浮ついた様子はなく、日々のエクササイズで通っているのだろう人たちが、黙々と(ガラス越しなので声は聞こえないが)、泳いだり歩いたりしていた。その様子を眺めながら、俺がここに、NOBITATTLEのカラフルで面積の小さい水着で登場し、それなりにきちんと泳ぐならまだしも、無意味にプールサイドに立っていたらあまりにも不審人物だろうなあ、と思い、プール内まで侵入するのはやめた。まあ、どんなプールか眺められただけでもいいか、と自分を納得させ、満足いくまで眺めたのち、建物をあとにした。
 前回、後編へ続くと書いたが、意外と中編だった。日記を書いているのは平日なので、細切れになってしまう。改めて、後編へ続く。

2026年8月17日月曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 3日目 8月12日 前編


 結局台風15号に関し、まみえたな、という感触はないまま終わったのだけど、ニュースでは宇都宮駅の大木が根元からぽっきり折れたりしていたので、おそろしかった。ちなみに世にも珍しい東から西に向かう逆走台風の特徴として、台風一過的なものは一切ない、というのがあるそうで、台風の本体が関東を通り過ぎたはずのこの日も、あまりすっきりしない空模様だった。
 そしてこの日はわりと書くことが多い。なぜなら家族がだいぶ別行動をしたからだ。
 まずポルガは、だいぶ前から宣言していた、ひとり東京社会科見学を実行した。具体的に言うと、国会議事堂と靖国神社に行ったそうである。だいぶ思想が強いセレクトで、親ながらびっくりするが、どうやら最近、近代世界史・政治史みたいなものにハマっているようで、本当は市ヶ谷の東京裁判の見学ツアーにも行きたかったらしいのだが、予約がうまいこといかず、仕方なく靖国神社にしたらしい。1年の中で、だいぶピリピリ感の強いタイミングの靖国神社なんじゃねえかなー、という気はしたし、そもそも東京の電車や町をひとりで大丈夫か、という不安はあったが、本人のついてくるなオーラがすごかったので、あざみ野駅までの見送りだけした。ポルガは出発前に電車の時刻表を調べようとしたので、田園都市線は時刻表を調べなくていいんだよ、と説明した。目の前の電車を乗り逃しても、5分以内に次の電車が来るんだよ、1時間後とかじゃないんだよ、と。あと国会議事堂なら永田町駅なので、渋谷から半蔵門線直通で1本なのだが、どんなに説明しても、半蔵門線直通というのがピンと来ないらしく、最後まで「渋谷駅で半蔵門線に乗り換えるの?」などと訊いてくるので、どうしたって不安は募った。こんな島根の大自然の中でのびのび育っている子を、ひとりで東京なんかに解き放っていいのだろうかと。結果としては、予定していたふたつの施設はもちろん、それらのエリアにあるいろいろな建物も目にしたそうで、とても満足した様子で無事に帰ってきた。よかったよかった。まあポルガはすっかり田舎ナイズされているが、実は東京生まれだったりするし。
 どうして急にそんなことを言い出したかと言えば、残された3人は、他ならぬポルガ生誕の地である練馬に行ったからである。帰省前の日記にもチラッと書いたが、去年、いきなり声を掛けて、慌ただしく再会した友達と、今年こそはきちんと態勢を整えて会おうということになり、落ち合う場所をどこにするか、直前にやりとりしたのだけど、うまくまとまらず(横浜駅という案を僕が拒んだというのもある)、とりあえずわれわれが、向こうの居住地である練馬まで行き、そこから先のことは会ってから決めようという、結局1年前とあまり変わらないフワッとした事の運びとなったのである。
 そしてこれは、同時に僕の耳鼻科行きという用件も兼ねているのだった。復路の長い運転のこともあるし、とにかく悪化させるわけにはいかないので、暦の上では平日であるこの日(13~15日はお盆として)に、絶対に医者にかかったほうがいいという話になり、僕はそういうのがとにかく苦手で、ファルマンが調べてくれたのだけど、実家の近くの耳鼻科という耳鼻科は、既に夏休み期間に入りどこも休みであるのに対し、練馬区にはわりとやっている耳鼻科があるということで、ならば友達との待ち合わせ時間に先んじて練馬に入り、僕は耳鼻科へ行き、その間ファルマンとピイガには周辺で適当に過してもらおう、という算段になった。そんなわけで待ち合わせは午後だったが、9時くらいに実家を出発する。ちなみに車である。僕は僕ですっかり田舎ナイズされているので、なるべくなら公共の乗り物に乗りたくないのである。実際この1年間で、昨夏の池袋練馬ツアーでしか、電車というものに乗っていない。だから練馬へももちろん車という発想になる。そもそもあざみ野から練馬というのは、副都心線を使ったとしてもあまりアクセスはよくないのだ。
 練馬へは1時間あまりで着いた。練馬にファルマンと住んでいた当時、実家に顔を出したとき(帰省という言葉を使うような距離感ではなかった)、帰りは荷物が多くなるので母が同乗して車で練馬の住まいまで戻る、ということを何度かやった。今回、十数年ぶりにやった実家から練馬までの道程は、もちろん道など覚えていないので、Googleに丸投げだったのだけど、たぶんほとんど違う道で、残念ながらおもひではぶぉろろぉぉんしなかった。
 耳鼻科の予約時間まで少し余裕があったので、ファルマンとピイガを中村橋まで送った。ふたりはここで練馬区立美術館に行ったそうだ。ちなみにだが、開催されていた企画展は、だいぶ高尚すぎる現代芸術的なやつだったそうで、ぽかーんとしたそうである。
 そして僕はひとり耳鼻科へ。短い問診ののち、僕の左耳の中を覗いた60代くらいの女医は、「きたなっ」と驚きの声を上げた。耳鼻科の先生が思わず「きたなっ」と言ってしまう俺の耳の穴。なんか、傷とか膿とか、とにかくだいぶエグい感じの、外耳炎になっているらしい。とりあえず液体を吸引してもらい、点耳薬を処方してもらった。「島根に帰ったらそっちでも診てもらいなさい」とも言われた。「実家はどこなの?」とも訊かれ、「横浜です」と答えたら、「島根に住んでて、横浜の実家に帰省してて、それで練馬の耳鼻科に来てんの? なんで?」とツッコまれた。自分でももうよく分からない。いろいろあるんだよ。とりあえず医者に診てもらったという、その一点でだいぶ安心感が得られたのでよかった。
 薬を受け取ったところでファルマンに連絡を入れると、友達と連絡を取り合った結果、既に来ていることを知った友達が早く出てきてくれて、ちょうど合流したタイミングとのこと。それでこれからどうするのかと訊ねたところ、友達の案内で今日は飯田橋界隈の街巡りをすることになった、という答えが返ってきた。
 飯田橋! ぜんぜん馴染みがないが、練馬よりも都会であるということは察せられた。たぶん、車で行くような街ではない。地図で確認すると、同じ画面に靖国神社が表示されたのでおもしろかった。ポルガとニアミス! と思うと少しワクワクした。
 しかし飯田橋。飯田橋の街巡り。どうしよう。俺はいったいどうすべきだろう。駐車している車の中で、しばしの間、僕は思案した。
 後編へ続く。

2026年8月16日日曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 2日目 8月11日


 起きて世界がぐわんぐわんしていなかったのでとても安心した。血行をよくしたほうがいいはずだという言い訳を頭の中で唱えながら、朝風呂に入った。気持ちよかった。こちらの体調不良、それによる精神不安などはあったが、それでもやっぱりキャッスルイン豊川は快適だった。ちなみに今回で4泊目。なかなかのものである。
 出発時点で空は薄曇り。しかしこれから関東に進んでいくわけで、どこかで崩壊は訪れるのだろうと覚悟しながら、実家に向けて出発する。耳汁は相変わらず出ていたが、運転には支障がなかった。なにしろ運転できるのは自分しかいないのだから、気張らなければならないのだ。
 ちなみに去年はこの日の移動の途中で、清水のちびまる子ちゃんランドに寄った。今年もここにひとつ経由地を計画していた。しかし天候が天候なのでたぶんダメだろう、おとなしくまっすぐ実家に向かおう、と昨晩や朝の時点ではあきらめていた。ところが実際に車を走らせ、空の様子やニュースを眺めるにつけ、どうやら大丈夫そうだぞ、ということになり、やっぱり当初の目的を実行することになった。
 横須賀市は浦賀にある、ペリー公園および記念館である。
 横須賀市は、そのまままっすぐ進めばすぐに横浜青葉ICとなる、ひとつ前の横浜町田ICで降りて南南西方面、すなわち三浦半島を突き進むわけで、よく見るとぜんぜん通り道ではない。純然たる寄り道である。しかしわざわざ実家からペリー公園に行くかと言われたら絶対に行かないわけで、大移動の勢いとしか言いようのない、4時間が5時間になってもそんなに変わった気がしないよね、みたいな謎の理論で実行された。ちなみにリクエストしたのはもちろんポルガである。ポルガ以外の誰がペリー公園に興味を持つというのか。
 そんなわけでたぶん生まれて初めて足を踏み入れた横須賀市は、なんとなくギラついた若者の街のようなイメージがあったのだが、実際はわりと色彩の少ない、地味で落ち着いた印象だった。たどり着いた浦賀には海岸があり、実際にそこなのかは知らないが、いまから173年前の1853年に、このあたりに黒船が来たんだなー、そうかー、浦賀って本当にあったんだー、思ってたより近かったんだなー、横浜の教師ってぜんぜんそういう臨場感とかを伝えなかったんだなー、という感想を抱いた。砂浜から道を挟んですぐの所にペリー公園はあり、その敷地内に大きな石碑と記念館が建っていた。ちなみに記念館の入館料は無料で、つまりそこまで力の入った施設ではなさそうで、はっきり言って全体的になかなか渋いスポットだった。それゆえにディープだし、それでいてネームバリューだけはあるので、「浦賀のペリー公園に行ったことがある」というのはなかなか貴重な称号かもしれない。もっとも来年の大河ドラマは小栗忠順なので、多少はこのエリアも盛り上がる可能性がないことはないかもしれない、とも思う。ポルガは行けて満足したようだったので、まあ行ってよかったかな、と思った。
 浦賀を後にして、実家へと向かう。1時間くらいだった。マジかよ、実家とペリー来航の地は、車で1時間なのかよ。
 実家には母と祖母、そして甥がいた。中学2年生である甥は、去年よりもだいぶ成長していた。身長は8cmくらい伸びたと言っていたか。ただし本人の気性か、令和はそういうものなのか、あるいはそれはまだ先なのか、思春期男子特有の「はあ? ちげえし」的な、朴訥で生意気なあの感じはぜんぜんなかった。と言うか、いとこ一家を出迎えるために祖母の家にひとりで先に来ている、という時点でそのモードに入っているはずがないのだった。
 やがて叔父も来て(母が迎えに行って)、そして姉夫婦と姪もやってきて、初日ながら一族が揃った。「来年はもういない」としきりに言う97歳の祖母も含め、みんな相変わらずだった。なによりなことである。晩ごはんは定番の手巻きずし。おいしかった。
 夜、敷いた布団の上に、持ってきたマットを乗せた。去年、実家の布団のあまりの硬さを嘆き、絶対に折り畳みのマットを調達して持っていこうと心に誓ったが、本当に購入し、実行したのだった。子どもは別にぜんぜん平気だというので、ファルマンと僕、2枚分である。これがすごくよかった。厚さ3cmほどの、ごろ寝用低反発マットみたいなものなのだが、あるとないとでは大違いだった。特に今回、耳の不調で眠りが浅かったり、体がいつもよりダメージを負っていたので、あって本当に助かったと思う。いい買い物をした。

2026年8月15日土曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 1日目 8月10日


 今年も無事に決行され、そして戻ってくることができた、本州横断帰省であった。
 ちなみにこの「無事に」というのは、あくまで決行されたか否かの部分にだけ掛かっていて、道中で何事もなかったという意味ではぜんぜんない。わりと波乱に満ちていた。
 2年前、初めてこの形式での帰省をしたとき、お盆の1週間前くらいに宮崎県で大きな地震があり、それは南海トラフ地震の前触れかもしれないから警戒するように、などと言われ、そんなタイミングで山陰に住むわれわれが、近畿および東海地方をひた走って関東の実家に行くのかよ、という状況の中、それでも実行し、結果的に南海トラフはなかったのだけど、復路である横浜の実家を出発する際は、関東に台風が接近していて、東海道新幹線が計画運休などする中を、ギリギリでかわすように豊川まで脱出するという、なかなかのアドベンチャーがあったが、今回もそれを彷彿とさせるレベルでスリリングだった。
 なんてったってこの進路である。


 わが家は地方から関東に帰省するので、主流のそれとは逆ということになり、たしかに高速道路では反対側の車線にばかり渋滞を目にするのだけど、今回発生したこの台風もまた、見事な逆走なのだった。こんな進路、記憶の限り見たことがない。実際、茨城県に台風が上陸したのは今回が統計史上初めてだったそうだ。茨城の台風処女が喪失したのだと考えると、少し面映ゆくもある。
 通常通りの、西から東に進む台風ならば、数時間程度にしろ、できる範囲で予定をずらして対応することもできるだろうが、真っ向からやってくる相手には対処のしようがない。正面から立ち合って、がっぷり四つの構えを取るしかない。要するに、なすがまま、ということである。それにしたって本当にすごい進路だ。ほぼわが家の通ったルートじゃないか。ご丁寧なことに、熱帯低気圧に変わるのは山陰沖だという。もしかするとわが家の道程は、台風のための露払いだったのか。そしてなぜ僕はこんなに台風を相撲に喩えるのか。
 それで、実際に移動の際の天候はどうだったかと言えば、10日の時点ではまだ台風は太平洋沖にいたので、そこまでではなかった。往路の宿泊先は安定のキャッスルイン豊川だったのだが、9時にこちらを出発し、幾度かの休憩を挟みながら、目立った渋滞もなく、最後に少しだけ雨はあったものの、16時前には到着した。
 それ自体はとても順調だったのだが、ひとつ問題があり、僕の耳が爆ぜたのである。
 急になにを言い出したんだ、という話だが、実を言えば前兆はあった。半月ほど前から、左耳が詰まるような違和感が時折あって、嫌だなあと思っていた。それで、いま思えば絶対によくなかったのだが、詰まっている感じのなにかを排除しようと、わりと綿棒をやっていた。さらにはひとつ前の記事で報告したように、あろうことかそんなタイミングでプールに行ったのである。これもきっとよくなかった。だからたぶん、出発の時点で僕の耳の状態はだいぶよくなかったのだと思う。そこへ、ふたつだかみっつだかの台風に取り囲まれた日本の、起伏のある道を爆走したのである。それはもう、爆ぜるよ。走っている途中で、詰まるとか、プツプツする感じとかとは別種の、物理的な違和感を感じて、ティッシュを耳にあてたら、嫌なにおいのする無色の液体が出ていた。うひゃあ、と思った。
 ただ液体が出るだけで、痛みなどは特になかったため、1年ぶりのキャッスルイン豊川で、サウナに入ったり、ビールを飲んだり、という部分はしっかり堪能した一方で、部屋のベッドで横になり、左耳から液体が滲み出る感触を気にしながら、「悪化したらどうしよう」という絶望に近い危機感を抱いていた。想起したのは2015年の夏にやった、めまいだ。めまいになったらとても車の運転などできない。だが、できなかったらどうするのか。だって6時間あまりかけて愛知県に来てしまっているのだ。愛知県に車を置いて、電車で帰り、回復してからまた取りに来なければならないのか、などと暗澹たる想像が浮かんだ。このとき、その不安を実際に口に出すことはなかったのだけど(けなげだなあ)、旅程の最終盤、どうにか自宅に帰ることができそうだという算段がついたところで、「実はあのときそういう恐怖を抱いていたのだ」とファルマンに打ち明けたら、「そんときゃ私が運転したわ!」と即答された。そう即答されて、自分があんな状況に置かれてもなお、ファルマンに高速道路を運転させるという選択肢が、頭の中にほんの一片も存在しなかったのだと気づいた。たぶん僕の中でファルマンの持っている免許証は、「オートマ限定」であると同時に、「子どもの送迎がメインで、あとはせいぜい銀行と病院くらい限定」で、高速道路は(法律上)運転できない区分なんだと思う。それくらいその発想が抜け落ちていた。
 幸いなことに、結果として悪化はせず、めまいも起らず、ファルマンにハンドルを握らせることもなく済んだ。しかし翌日に待ち受ける台風との正面衝突も含め、なかなか不安感の強い、1日目の夜だった。

2026年8月8日土曜日

はっぱち・ぷーる・はーぶ


 令和8年8月8日ということを、世間は少しだけ取り沙汰していて、そんなん言うたら俺ら夫婦が籍を入れたのも2008年8月8日だし、と無意味な対抗意識を抱いていたのだけど、無意味な対抗意識を抱くだけで、そこから先の発想がまるでなかった。たったさっき思い至った。そう、つまり、誰かが積極的に記念日にしようとするかもしれない今日という日は、われわれ夫婦の結婚記念日なのだ。なんか完全にそのことが掻き消えていた。令和8年というのはわれわれにとってはまったく関係ないが、8月8日というのはそれだけでお祝いすべき日なのだった。危ない危ない。でも本当は危なくない。結婚記念日のお祝いを忘れて怒るタイプの伴侶ではない。さっき思い至ったこの事実をファルマンに告げたときの反応は、無か、あるいは少しの億劫さがにじみ出ていた。続けて結婚18年目だと伝えたら、「うーわ」と、自らの加齢を痛感するほうに気持ちの比重がいったらしく、若干忌々しげでさえあった。ふたりの! ふたりの歩んだ18年間を! お前! と思った。

 今週はプールに2回行った。前回の記事で述べた通り、と言うか、ああやって書くことで自分を奮起させたわけだが、月曜日から木曜日はきちんと断酒し、水曜日と金曜日の退勤後に、しゃしゃっとプールに立ち寄った。しゃしゃっと、というのは、金曜日は400m、水曜日に至っては200mだけをせわしなく泳いで、入館から退館まで30分前後の滞在で済ませたからだ。そんな、行ったという事実作りのためだけのプールに果たして意味があるのか、と問われれば、大いにある、と胸を張って答えられる。これがすごくよかった。泳ぐ前にストレッチをするわけだが、筋トレもやれていない現況、このとき久しぶりに身体の筋を伸ばした感じがあり、これだけでもプールに来た果以があったのではないかと思った。泳ぐこと自体は、やはり真夏のプールなので、水はぬるく、透明度は低く、清々しさはあまり得られなかったのだけど、それでも本当に身体を動かさず冷房で強張ってばかりの暮しの中で、たった200mでも、やるとやらないとでは大違いだろうという確信があった。そんなわけで、今後もひと月程度続くだろう灼熱の日々では、そんなふうにプールと接していこうと思う。そして秋口、軽佻浮薄な輩がいなくなり、水の透明度が増したプールで、僕は心の底から感動に打ち震える。まあ要するに、毎年そんな流れだ。

 労働が夏休みに入る。長くて嬉しい。こうやって大型の連休があるのだから、普段どんなにしんどくたってへこたれずにいればいいじゃないか、ということを思ったりするが、なんでそう思うかと言えば、それは今が大型連休がはじまったタイミングだからだ。この効能は、この瞬間にしかない。再開された平日には微塵も残っていない。刹那的な生きものだな。
 連休に入った途端に帰省に出発かと言えばそういうわけでもなく、少しゆとりがある。だからこうして日記を書いているし、このあとは水着ならぬショーツを久々に作ろうかな、などと考えている。帰省の準備ということで、先ほど車中のお菓子や暑さ対策グッズなどを買い込んだのだが、その一環として、ショーツを新調、新調というのは僕の場合、製作ということになるのだが、それをしようと思っている。長い運転でもなるべく熱がこもらないような、涼しげな素材で、面積の小さいやつを作ろうと思う。なんかこの考え、雑誌で紹介される類の、とてもきれいなライフスタイルのような、庭先で育てたハーブを使ってオリジナルのソーダを愉しむみたいな、その手の香りがうっすら漂う行為である気がしないでもないのだが、しかしどうしたってたどり着く先が、世間的な基準で見れば変態的な状態の男性の下半身の事柄になるので、やっぱりあの素敵な暮しグループの仲間には入れてもらえないのだろうな、と思う。実際あのグループはあのグループで、だいぶ偏狭であるに違いないしな。

2026年8月4日火曜日

ライオンと夏


 相変わらず、バカなんじゃないかというくらい暑い日々を、なんとか生きている。あまりの暑さに動物園のライオンも熱中症で死んだ。ライオンというのが、どう反応していいのか分からない。サバンナの生きもののくせに、という気持ちがまず起るが、日本以外のあらゆる暑い地域についての話題のとき必ず出てくる、「気温的には高くても、あっちは日本ほど湿度が高くない」のやつで、サバンナというのも木陰とかではそんなに暑くないのかもしれない。しかし動物園のライオンは、2週間前にサバンナからやってきたわけでもないだろう、とも思う。またネコ科のライオンというのが、暑さに強いのか弱いのか、判然としない感じがあり、これもまたこのニュースに対してどう反応すべきかという判断を迷わせている。これがシロクマであれば「そりゃそうだろう」だし、ラクダであれば逆に「この世の終わりだ」となる。ライオンは難しい。すごく絶妙な所を突いてきたな、と感心するほどだ。
 世間は夏休みということで、上の妹とその娘たちが、先週末にこちらにやってきた。毎年のことである。上の子は小学6年生、下の子は4歳である。こちらには2週間ほどの滞在になるが、そのうちの3分の1くらいは、逆にわが家が不在となるので、いちどくらい集合してなにかしようという話の流れになり、日曜日に両親や下の妹も含め、総勢10名でカラオケへと繰り出した。以前実家の面々とカラオケをしたのは、2024年の暮れのことである。その当時と今回で大きく変わったのは、なんと言ってもM!LKの存在だろう。目下、3姉妹ともにドはまり中であり、当然カラオケでも選曲され、次女や三女が芸達者に振り付けやモノマネなどを織り交ぜ、大盛り上がりだった。いまカラオケは、「イイじゃん」と「好きすぎて滅!」と「爆裂愛してる」さえ上手に歌いこなせたら、まず問題ないようである。これが勢いというものか、ということをまざまざと見せつけられた思いがした。しかし光が強ければ影も濃くなる。M!LKの盛り上がりの分だけ、自分の歌唱はとても色褪せて感じられ、いまいちな気持ちになった。カラオケは喰うか喰われるかだな。
 そしてプールには相変わらず行っていない。しかしさすがに、「余力がない」「気持ちが盛り上がらない」「冷房病で関節に違和感がある」「だからプールに行かない」「そして酒ばかり飲む」「酒量が増えて倦怠感がある」「余力がない」という、本当にダメなサイクルからは脱しなければならないと考え、週明けからはとりあえず酒を断っている。酒を断つことで余力が生まれれば、プールに行く気も出てきて、そしてプールに入ったら、冷房病も緩和されるのではないかという期待がある。なんとかいい方向に肉体と精神を持っていきたい。そうしないと本当に無理。死んじゃう。がるるるくぅーん。

2026年7月29日水曜日

夏枯れ


 夏の帰省が近づいている。毎年、直前になるまで、まだまだ先のことのような感覚があるのだが、ひとたびもうすぐなのだと感じたら、わりと目前に迫っているような感触になる。間がない。ひたひたと忍び寄ってこない。ワープして来る。
 恒例の車内プレイリストは、今年もひとり100曲(10のプレイリストに10曲ずつ)がノルマで、そのことは去年の帰省が終わったときからずっと意識していて、日々の中で気に入った曲があればチェックを入れて、来年のプレイリストに入れようっと、ということをするのだけど、そうやってピックアップした曲というのは、10ヶ月でせいぜい20曲くらいのもので、あとの80曲は、残りの2ヶ月で捻出することになる。無理やりである。普段の暮しならば1ヶ月で2曲ほどのものを、最後だけ1ヶ月で40曲やってしまうのだから、ドーピングどころの話ではない。遺伝子操作とか、人体改造とかのレベルだ。そんなんだから、実際の帰省のときに曲を掛けていて、これは誰が入れた曲なのかと確認したら自分だった、という事態も起ってくる。まあそれはそれで愉しいのだけども。
 ところで、そんな車内であるとか、SAであるとか、ホテルとか、日本を横断しているのだという昂揚感とかはとても愉しみなのだけど、肝心のそうやって移動した先、実家、すなわち横浜での過し方について、実は途方に暮れてしまっている。子どもたちは、あそこに行くのだとか、いとこで遊ぶのだとか、わりと健全に計画が立っているようなのだが、ポルガは東京での目的地はひとりで愉しみたいから絶対についてくるなと言うし(心配なのだが)、もう4人全員が中学生以上であるいとこでの交流に親の出る幕はないので、なんだかすっかり身が空いてしまっている。じゃあせっかくの横浜、せっかくの東京なのだから、普段の田舎暮しでは望めないような、テレビの中に出てくるような、あんな所やこんな所に繰り出せばいいじゃないか、という話なのだが、そうやって思い浮かぶような行きたい場所は別にひとつもなく、えっ、ひとつもないの? とびっくりし、ポルガが積極的に「あそこに行くんだ!」などと言っているのをまぶしく見るにつけ、もしかして俺はすっかり好奇心というものを失くし、枯れてしまったのだろうかと恐怖に駆られたのだけど、ファルマンに相談したところ、「あなたって昔からそうだったじゃない。東京に住んでた頃から図書館とブックオフにしか行ってなかったじゃん」と言われ、そう言えばそうか、と救われた。救われたと言っていいのだろうか。お前はいま枯れたわけではなく、人生全体が枯れているのだと僕は言われたのではないだろうか。ファルマンは、去年慌ただしく再会した友達と、今年もまた会うかもしれず、なんなら一緒に行こうよと誘ってくれるのだが、行き場がなくて妻に帯同するって、そんなん濡れ落ち葉じゃん、やっぱり枯れてるんじゃん、と想像してまたショックを受けた。こういうとき、推しがないとつらい。聖地巡礼とか、そういうのがあればいいのに。もっとも聖地という意味では、池袋や練馬あたりの思い出巡りはだいたい去年もうやってしまった。そうか、俺の聖地は自分の思い出の地なのか。しかし濡れ落ち葉を拒んで外出せず実家にいるというのもあまりにも悲惨すぎると思う。どうしても、という外出で思い浮かぶのはプールやサウナだが、プールもサウナも、白けたことを言うようだが、結局は自分の身体への刺激なので、それは横浜だろうが島根だろうが、実はあまり違いがないんだよな。わざわざ遠方に行ってやらなくてもな、などと思ってしまう。なんて冷めた考えだろうか。どうもいかんな。このままだと本当にまずいぞ。
 プレイリストの音楽は、あと20曲ほどのところまで来ている。その捻出とともに、本番までに僕は、横浜での外出先も突貫で考え出さねばならない。どうしよう。

2026年7月26日日曜日

「僕の妹は怪盗に変装しているつもりです。」を読んで


 13冊目。2011年6月刊行。通し番号は190。
 どういう風の吹き回しなのか、当時なにか神楽陽子のキャンペーンでもあったのか、前作「スクみこっ」からの2ヶ月連続刊行であり、通し番号も連なっている。編集者ブログも閉鎖されてしまった今、どうして急にこんなことになったのか、探りようもない。もっともそれぞれの内容に関連性はまったくなく、そう考えると特に趣向があったというわけでもなく、巡り合せでたまたまそうなっただけなのかもしれない。
 あらすじはこちら。

 学園内を賑わせる謎の怪盗・えっくすキュートの正体は生徒会長でもある妹・美宇!? 普段のクールな様子とは違うデレデレぶりに戸惑うが、所構わずエッチに迫る彼女の誘いは断れない。正体を暴いてしまうとこの関係は終わってしまいそうで……!?

 いつにも増してよく分からないあらすじなのだが、とにかく確かなのは、女の子はひとりだということだ。ひとりかよー、とまず思う。そして読みはじめる。すると、その情報でハードルが下がっているためか、おや? となる瞬間がある。女の子はひとりのはずなのに、意外といけるぞ? と。
 美宇は主人公とは長く離れて暮らしていた実の妹であり、同じ学園に通うようになった今も兄に対して心を開いていない。でもそれは(とても意表を突く設定だが)、兄への激しすぎる好意の裏返しであり、わざと冷たく接しているだけなのである。そんな美宇だが、学園に突然現れては、教師に没収された生徒の私物を取り返す義賊、えっくすキュートに変身しているときだけは、兄に対して素直に甘えることができる。えっくすキュートの変装は、スクール水着の上に改造セーラー服を羽織り、小さいシルクハットを頭に乗せ、仮面とも言えない目元だけを蔽うゴーグル程度のものを付けただけのもので、主人公はもちろんすぐに妹だと気づくので本人に向かって言及するのだが、もちろんえっくすキュートこと美宇は否定する。そして否定して、美宇ではないから、思う存分にデレることができる。これはそういう画期的なシステムのお話である。エロ小説に出てくるツンデレの少女は、最初の7ページくらいしかツンツンせず、ほとんどデッレデレのグッショグショじゃねえか、という問題を、神楽陽子はこの設定によって見事にクリアしてみせた。
 これにより、単独ヒロインなのに、なんとなくそうではないような感触が発生し、リーダビリティが画期的に上昇している。えっくすキュートに対してシャワー室で挿入しながら放尿させるようなハードなプレイをしたのち、校内でばったり会った美宇に冷たくあしらわれると、そこには独特の背徳感が生まれる。これは新鮮な発見であった。
 もちろん最終的には、えっくすキュートの正体が実は美宇であるということはバレる。保健室のベッドで行為に及ぼうとしている際、人の気配に慌てて布団の中に隠れたときに、えっくすキュートの仮面は外れてしまう。しかし本人はそのことに気付かず、美宇の素顔を晒したまま、えっくすキュートとして行為を続行してしまう。途中で仮面が外れていることに気付いた美宇は恥ずかしさに打ちのめされる。

「教えてほしいな。美宇はどうして、変装して僕に近づいてきたの?」
けれども素直になれない妹は、そう簡単に真意を教えてはくれない。だったら、落ちているアイマスクをかぶせてやればいい。
「だ、だって……兄妹だと結ばれないし、んくふ、美宇ちゃんね、お兄ちゃんに嫌われてるんだと、お、思ってたから……」
「……じゃあ、美宇は僕のこと好きなの?」
 最後の問いかけには、恥ずかしそうな、照れるような間があった。
「兄妹なのに、好き……だなんて、言っても、受け入れてもらえるわけないもん。だからきゅーと、こおやって変身すれば、お兄ちゃん、付き合ってくれるかなって」
この妹はお兄ちゃんに恋をしてしまったらしい。けれども、それは実の兄妹では許されないこと。そこで「えっくすキュート」の姿を借りて、兄と恋愛関係を築こうとした。
 表向きは距離を置いていたのも、悠を意識してのことだったのかもしれない。
「言ってくれればよかったのに。僕が美宇のこと、拒むとでも思った?」
 アイマスクを外しても、実の妹はもう抵抗しない。
「ですから、私たち……あん、兄妹で、こういうことは」

 よかったよかった。美宇ちゃん、よかったね。このあと主人公と美宇は怒濤のアナルセックスへと突入し、背面駅弁の状態でスタンドミラーの前まで運ばれ、そこで放尿までさせられる。ふたりの輝かしい未来を象徴する、感動のシーンである。
 この中にこんな一節がある。

 可愛い妹をふたりも手に入れた気分だった。怪盗えっくすキュートも、実妹の美宇も、お兄ちゃんの欲張りで節操なしのオチンチンに恋をしてしまっている。

 そうなのだ。単独ヒロインのはずなのに、普通の単独ヒロインの物足りなさをあまり感じないのは、キュートと美宇、まるでふたりの女の子を同時に攻略しているような気になるからだ。実際はひとりなので、もちろんダブルフェラなど3Pとしてのプレイは不可能だが、それを感じさせない読み応えがあった。ものすごい離れ業だと思った。この手法、著者本人としても手応えがあったのか、同じような趣向の作品がこのあとも登場する。神楽陽子はいつまでも引退しなければよかったのになあ、そうすればエロ小説業界はまだまだ活況だったのかもしれないのになあ、としみじみと思う。

2026年7月25日土曜日

夏放言


 とても暑い。嘘だろ、と思う。2026年、ここまで気候はわりと平穏で、ここ数年の荒れたOBたち(2024年とか2025年とか)と違い、このまま平和に卒業(大晦日)までいってくれるのではないかと期待していたのに、ここに来てきちんと荒れた。荒ぶった。信頼関係を築きかけていただけに余計ショックが大きい。
 7月に入って一気に暑くなったことで、プールにもぜんぜん行っていない。記録を見ると、なんとここまで2回しか行っていない。先日も書いたことだが、3連休で行こうと試みたが、その際は混み過ぎていて断念した。夏休みに入り、プールは毎日活況なのだろう。なんだか不思議だ。男らしさ・女らしさは相対的なもので、要するに社会における男女の主導権の取り合いだ、という話があるけれど、僕のプールと、いまプールを混ましている輩のプールというのも、なんかしらの形をした一個のパイの取り合いなのかもしれない。
 そう言えば6月に、プール用のボディーソープを新しくするタイミングがあり、このときメントールが配合された涼しげなやつにして、これから始まる夏に向けての期待が高まったのだけど、いざ蓋を開けてみたら夏の間、斯様にぜんぜんプールに行かないものだから、このままだとあのボディーソープは大量に余ってしまう。そして涼しくなってようやくプールに足が向くようになったら、そのときはメントール配合のボディーソープには寒気を覚えることだろう。なんか毎年こんなことをしている気がする。めんとおる配合そうぷ秋廃棄。たしか芭蕉の句だっただろうか。一茶だったかもしれない。季語は「秋廃棄」。6月にメントール配合のボディーソープを買うときの僕は、夏がそこまで暑くならないと思っているわけではなくて、夏は暑くなるけど、自分はそれに打ち克って溌溂と爽やかに生きられると思っているのである。そう考えるととても切なくなってくる。ごめんね。無理だよ。
 プールに行かないことに加え、そもそもの生きる上での余力が乏しいわけで、もちろん筋トレもままならない。快適な時期に蓄えた筋肉貯金を、夏は食い潰すのみである。夏こそプールで鍛え上げた肉体美を披露する時期なのではないのか。とかくままならないな。
 プールに行かず、筋トレもせず、家でどうしているかと言えば、チューハイを飲んでいる。チューハイというポーションをせっせと飲むことで、なんとか日々の回復に努めている。ちゆうはいはあもうるの水なつのよい。たしかこれは子規だったか。季語である「夏の宵」と「酔い」が掛かっているのがさすがだ。アモールの水というマイナーな回復アイテムを出してくるのも、子規の人間性がよく出ていると思う。
 ちなみにだが、プールと筋トレがそんな感じで、性欲のほうはどうなのかという話だが、記録を改めて確認したところ、これもまた実績が芳しくない。よくない! プールに行く気が起きないのは仕方ない。筋トレをする気力が湧かないのも仕方ない。それでもちんこは積極的に勃てていこうよ、と思う。そこまで失ったらいよいよおしまいだろ、と。めんとおる配合あもうるの水ちんぽ。これは俺の句。季語はない。季語はないが、ちんぽ語を入れているので、ちんぽ句としての要件は満たしている。

2026年7月20日月曜日

バンドゥボックス型水着の出品


 3連休でやれたらいいと思っていた、極北ボックスの次の、例の新しいパターンの出品が、無事に成った。めでたい。その名もこちら。


 である。リンクを開いてもらえば分かるように、とりあえず3点を出品した。
 こちらと、


 こちらと、


 こちらである。


 「真正面から見たときただの長方形に見える」がコンセプトなので、今回のパターンの表紙画像は、これまでの少し左斜めから撮ったものではなく、正面からのショットにした。
 名称のバンドゥは、すなわちバンド、フランス語の「帯」という意味で、肩紐のない、チューブトップ型のセパレートタイプの女性用水着のことをバンドゥビキニと呼ぶが、そこから取った。ちなみにバンドゥボックスで検索をかけたところ、まだそんな言葉はこの世にないらしかった。なので俺が提唱者だ。
 価格は悩んだ末に2400円とした。これまで極北ボックスを2800円で出品していたのだが、あんまり売れず、バンドゥの出品に先んじて、半月ほど前に全品2000円に値下げした。それよりは高く、しかし2800円というのはどうやら高すぎるようなので、2400円である。なかなかいいところを突いているのではないかと思う。
 既に完成したが、まだ出品していないものが何点かある。裁断だけして、まだ作っていないものも何点かある。これからせっせと作業していこうと思う。
 ちなみに作ったものは、もちろん1枚だけを作ったのではなく、自分用と出品用、2枚を作っているわけで、この3連休で、また自分用の水着がどっと増えた。どっと増えたが、結局この3連休ではいちどもプールに行かなかった。実は中日の夕方に行くだけ行ったのだが、駐車場が満車で、すごすごと退散したのだった。世間の学生は夏休みに入り、年間会員はプールから足が遠のき、いよいよ生産に対して消費が追いつかない。この場合の消費とは、「いちどでもプールで使用すること」である。僕はなんかそういうことになっているが、もちろんこれは使い捨ての製品ではない。購入した人はぜひ永く愛用してほしいと思う。

2026年7月19日日曜日

エアコン・60・3連休


 エアコンが直る。結局ファルマンに電話してもらい、業者に修理に来てもらったのだった。
 業者の人は慣れたもので、電話でエアコンの症例を聞いたら、「それはガスが漏れて減ってるんですね」とすぐに断定し、翌日にはその処置に来てくれたのだった。
 かくして復活した部屋のエアコンは、部屋が西日に照らされる夕方も、しっかりと稼働してくれている。基本的な効きもよくなったようで、夜などは28度の微風設定でも寒さを覚えるほどである。であれば、これまでの空回りのような効率の悪い稼働に較べ、電気代も抑えられるものと思われ、安い修理代ではなかったのだけど、まあ踏ん切りをつけて依頼してよかったのかな、と思っている。ちなみにだが、業者によるとエアコンガスというのは数年の使用で漏れてしまうようなものではなく、こういうのは大概の場合、はじめの設置のときの不手際が要因なのという。でもそれは決して証明できないし、設置業者も絶対にそんなことは認めないので、不運と思ってあきらめるしかないのだそうだ。そうなのかよ。今後の人生、新しいエアコンの設置の際は、上下白いジャージとか着て、威圧的に作業を凝視することにしようかな。まあそんなことを言い出したら、エアコン設置に限らず、あらゆる対外的なやりとりの場面、上下白いジャージを着て威圧感を出した者勝ちなんだよな、とも思う。きれいに生きてゆきたい。

 10枚の人がまた水着を買ってくれた。もちろん10枚である。
 これまでは旧作のほうだったので10枚で8800円という値付けだったが、今回は最新の極北ボックスだったため、10枚で17000円という価格を提示したのだけど、無事にご購入いただけた。嬉しい。金額も嬉しいし、なにより訴求が嬉しいじゃないか。これによりこの顧客は、僕の作った水着を60枚(プラスおまけで5枚くらい)保有していることになる。ろ、60……枚? と、製作者ながら、販売者ながら、少し震撼している。ど、どういうこと? と。
 普通には販売されていない感じの、自分にとっての理想を追い求めて作ったということは、極めて限られた少数の人にとっても、「これを待ってた!」と心に深く突き刺さるものになり得るかもしれないという、そういう期待があって出品しているわけだが、それにしたって60枚である。いよいよただの「よほど気に入ってくれたのだな」では説明がつかなくなったきた感がある。
 もしかすると、少し前の段階からその疑いは持っていたのだが、これは未来人の仕業かもしれない。将来、創始者本人が製作した伝説のNOBITATTLEとしてとんでもないプレミア価格がつけられるものを、過去にタイムスリップして買い漁っているのかもしれない。だって、だって60枚だぜ?

 3連休の中日の夜である。明日も休みである。
 6月には祝日がないので、GWからここまで、2ヶ月あまり3連休から遠のいていた。あるいは大味のGWには逆に3連休としての効能が失われていると捉えた場合、それはなんと3月の春分の日まで遡る。だとすれば4ヶ月ぶりだということになる。
 4ヶ月ぶりの、3連休の中日の夜というものを迎えて、日々の、平日で擦り減ったゲージを、週末でなんとか回復させるという繰り返しとは別に、平素は動きがないため表示としては消えてしまっているけれど、実は存在している隠しゲージが、満たされるのを感じる。それは3連休でしか得られない、回復できない、専用のゲージ。2日休んだあと、さらに明日ももう1日休みなんだという幸福感が発生させる、特殊な物質にしか反応しない性質を持っている。それが今、グイングインみなぎってきている。みなぎっているのだから、これはつまり、活力なんだと思う。みなぎったものを、なるべくほとばしらせず、長くたぎらせ続け、暮していきたい。なんかとても中年っぽい発想だな。