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2026年8月22日土曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 5日目 8月14日 前編


 起きてニュースを見たら、千葉県がすごいことになっていた。なにかが少し違えば、それは神奈川県の横浜市だったかもしれない。昨日の雷雨はたしかに激しかった。千葉にその本体があって、当地ではあれがずっと続いたのだろう。おそろしい。
 さて2026年の夏の帰省も、今日からいよいよ復路となる。この日はこの日で予定を詰めていたため、わりと早めの出発となった。母と祖母に見送られ、8時半くらいに実家を出た。
 神奈川県を出て静岡県、静岡県から愛知県と、いつも通りにルートを進むが、豊橋市あたりからいつもと違う道を進む。岡崎市のほうではなく、田原市の方面。それはつまり、渥美半島を行くということである。渥美半島、分かりますか。愛知県の、クレーンゲームみたいになっているふたつの半島、西にあるのが知多半島、東にあるのが渥美半島。それを突端に向かってグングン進んだ。半島の先っぽなんかに行ってどうすんだ、と言うと、つまりこういうことである。


 渥美半島の先っぽ、伊良湖港という所から、対岸の三重県鳥羽港にはフェリーが巡航しており、これに乗れば愛知県と三重県を陸路でぐるっと回らずとも、三重県の南部にワープ(所要時間60分)できるのである。もちろん車ごとである。画像は他ならぬ伊勢湾フェリーからいただいた。それで、三重県南部へと進出したわれわれは、2年前にたどり着けなかった伊勢神宮にとうとう行ったのか、と言えばそうではない。目的地は鳥羽水族館である。
 旅の計画を練っていたとき、地図を眺めていて、ここに………とフェリーの航路を示す線があるのを見つけたときは、テンションが上がった。渥美半島といういつもと違う道も愉しいし、フェリーに車ごと乗るのも愉しいし、しかも鳥羽水族館に行けるのだ。関東では思い出巡り以外に行きたい場所がなく、自分の好奇心の低下におののいたが、実はこの旅のクライマックスには、こんな隠し玉を用意していたのだ。
 というわけで伊良湖港を目指して車を走らせる。初めて走る、そしてたぶんこれっきりだろう渥美半島の風景は、なんか白昼夢のようだった。海沿いの道のはずなのに海はほとんど見えず、赤土の田園ばかりが続く。ガソリンスタンドとコンビニはあるが、スーパーマーケットがぜんぜん見当たらない。また真夏の真っ昼間なので当然だが、通行人はぜんぜんいなかった。そしてそんな風景が、だいぶずっと続く。三重県南部に行こうとしているのだから仕方ないが、実家から伊良湖港までは4時間半くらいかかった。出発前のイメージでは、これはだいぶ時間の短縮になるなあ、車内音楽のプレイリストはだいぶ余ることになるんじゃないかなあなどと思ったが、どっこいそんなことはなかった。日本は広い。愛知県の、クレーンゲームみたいになっている部分は、けっこう長大なのだ。
 ようやく着いた伊良湖港の周辺は、恋路ヶ浜などという地名があったりして、急にリゾートっぽい、こじゃれた雰囲気を放っていた。ここがロマンチックな立地なのはまあ分かるが、ここに来るまでがちょっと大変すぎないか、と思った。駐車場に車を停め、フェリーの切符売り場に行くと、これに乗れたらいい、乗車数オーバーで次のになったら少し嫌だな、と思っていた便に乗れるということで、ほっとした。しかも鳥羽水族館との提携チケットということで、だいぶお得に双方のチケットを入手することができたので助かった。
 かくして車ごとフェリーに乗り込む。たしかこれって前にもやったことがあったよな……、と思い、記憶を探ったのだが、直島、大久野島、そして宮島、どれのことを思い出しても、車ごと乗る理由が見つからず、帰宅後に日記をきちんと確認したら、やっぱりやっていなかった。フェリーに自家用車ごと乗っている人を見て、自分がしたような気になっていただけだったのだ。なので実体験はこれが初めて。なかなか愉しかった。タイヤが動かないようストッパーみたいな器具を置くんだぜ。かっけー。車から降りて、デッキに上がる。船はそれからわりとすぐに出航した。出航するときの勢いというのはわりとすごく、飛行機の離陸のそれを一瞬だけ連想して心がざわついたが、これは空中ではなく海上なのだと考えると、それはifの世界で機上の人となっている僕に対して圧倒的なアドだな、と安心した。船内はそこまで人が多くなく、ボックス席も確保できたが、結局ほとんど外にいた。


 デッキで海を眺める僕とポルガ。日本地図で見ると、渥美半島の先っぽと三重県は、伊勢湾をほとんど塞ぐかのように接近しているように見えるが、実際に海に出てみるときちんと海なのだった。じゃあ太平洋とかマジででけえじゃん、と3日前のペリーにも思いを馳せる。ちなみに今回、ペリーとフェリーが旅の予定に組み込まれていたため、計画を話し合う際に聞き間違えてややこしい、という事態が何度か発生した。
 甲板にも少し出た。陽射しがすごかったので他に誰もいなく、われわれも短時間でまたデッキに降りたのだが、少しだけ写真を撮った。


 これは甲板に立っている、国道を示す標識。渥美半島で走ってきた国道42号線は、なんとこのフェリーの航路も含め、三重県まで続いているのだった。道という概念が根底から覆されるウルトラCの荒業である。わざわざ写真を撮ってもらったのは、42がちょうど年齢であることと、またその下の259は語呂合わせで地獄とも読め、42歳で地獄かー、なるほどなあ、と思ったからで、ポルガにお願いして、1年前の火の鳥のモニュメントと撮ったやつと同じ感じの構図で撮ってもらった。パピロウ、あなたはもう42歳で、東京へ行ってもかつての若かった頃の思い出を巡ることしかできない地獄に足を踏み入れてしまったのよ……、そしてそれはこれから死ぬまでずっと続くのよ……。
 そんなこんなしているうちに、1時間の船旅は終わりに近づき、車に乗り込むようアナウンスが流れた。渥美半島を走っているときは、こんなんワープでもなんでもねえな、と思ったが、海上でリフレッシュして、そして我が身は陸路ではなかなか来られない三重県南部にあるのだから、やっぱりこれは一種のワープかもしれないな、と思った。ちなみにだが、横浜と東京で頑なに公共の乗り物に乗らなかった僕だが、こうしてフェリーには乗ったわけで、これにより僕がこの1年間で乗った公共の乗り物はフェリーだけ、ということになった。これはなかなか特殊性が高くていいと思う。
 降り立った鳥羽港から鳥羽水族館はだいぶ近いようだぞ、と地図を見て思っていたが、近いもなにも、目の前だった。わー、鳥羽水族館だー!
 というところで後編に続く。この日はさすがに前後編で終わると思う。

2026年夏の自家用車横浜帰省 4日目 8月13日


 盛りだくさんだった3日目に対し、実家のほぼ最終日となるこの日は簡素なものである。
 ただし子どもたちはそうではない。子どもたちは、いとこらと4人で、よみうりランドに行ったのだった。よみうりランドというメジャーな遊園地が、実家から意外と近いのだということを、今回初めて知った。母によると、僕も行ったことはあるらしい。記憶はぜんぜんない。天候が果たしてどうなのかという不安はあったが、とりあえず大丈夫そうなので、開園時間に合わせるように、途中でいとこらをピックアップして、連れていった。あとはもう夕方の迎えの連絡が来るまでノータッチである。楽になったものだ。来年になれば姪が免許を取っているかもしれず、そうなれば送迎さえいらなくなる。楽すぎるだろ。遊園地そのものにはなんの興味もなく、ぜひ子どもたちだけで行ってくれたまえ、という感じだったが、夏季限定のプールには興味が湧いた。なので送迎の際にプールの様子を窺うことだけでもできないかと思っていたのだが、もちろんそんなことはぜんぜんままならなかった。昨日に続いて、やけにプールの様子を窺いたがる生きものである。「プール覗き界隈」と言うと聞こえが悪いが、有り体に言えばその通りである。でもそれは若い女性の露出過多の濡れた肉体が見たいという、それももちろんあるが、ただそれだけの理由ではなくて、要するに僕は、プールの雰囲気が純粋に好きなんだと思う。
 子どもを送ったあとの帰り道で、ファルマンとコインランドリーに立ち寄った。われわれの帰省によって洗濯物が多いのに天気がぐずついているので、母から乾燥を頼まれたのである。晴れ間がないことで知られる冬の山陰でも、なんだかんだでわが家はコインランドリーを利用せずに暮しているので(洗濯機に乾燥機能もないのに)、なんだか新鮮だった。コインランドリーと言えば、世間で大いに盛り上がっている、われわれ夫婦も愉しく観ているドラマ「Tシャツが乾くまで」を連想せずにはおれず、ドラマに出てくるコインランドリーの100倍くらい野暮ったい店で、少しだけショートコントのように「Tシャツが乾くまで」ごっこをした。愉しかった。この日は木曜日。明日は絶対にホテルの部屋のテレビで放送を観なきゃね、と話した。
 大人だけの昼ごはんに関してはなんの話もしていなかったが、ざるそばが食べたかったので、スーパーでそばと天ぷらを買って帰った。そして午前中だけのデイサービスから帰ってきた祖母も含め、4人で天ざるを啜った。おいしかった。
 午後は、時間があるので今晩の献立として餃子でも作ろうという話になり、それにあたって、いい機会なので僕が子どもの頃から使っているホットプレートをさすがに買い換えようということになって、3人で電器店とスーパーに行った。帰宅して餃子の餡を作っていると、とんでもない勢いで雨が降ってきて、ピカッと光ると、その直後に轟音が響いた。いきなり、ものすごく近い場所に雷雲が湧いたらしかった。果たして子どもたちは大丈夫なんだろうかと不安になったが、特に本人たちから連絡はなく、まあ屋外の遊行施設なのだから、本当に危険なときは係員がいいようにしてくれるだろう、などと考え、餡を作り終えたあとはのんびりと過した。雨はずっと降り続いたわけではなく、雨雲が去ったあとはスーッと晴れたり、しかしそのあとも急に豪雨になったりと、そんな感じだった。
 やがて連絡が来たので、濡れた子どもを車に乗せるの嫌だな、と思いつつ、タオルを大量に携え、迎えに行く。子どもたちは「びしょ濡れになったけどもう乾いた」そうで、たしかに少し湿っている程度だった。それはそれで嫌ではあったけれども。遊園地は、そんな天候もあってか、いとこの話によるといつもより空いていたそうで、存分に愉しめたらしい。ならよかった。
 というわけで、晩ごはんはまた一族が集結し、餃子。僕が餡を作った(包むのは僕が迎えに出ていた間にファルマンがやった)餃子は、当然ながら大好評だった。僕の餃子はいつだって異様なまでに美味しいのである。食べ終えたあとは、8月13日ということで、庭先で迎え火を焚いた。今年は一族が全員集合でできたので、よかったんじゃないかと思う。
 そのあとは恒例のような、でも去年はたしかやらなかったような、数独の同じ問題を全員で一斉にやる、というのをやった。いつの間にかできた変な行事。順位は、1位が姪、2位が叔父、3位がポルガだったか。僕も、アルコールが入っているし耳から汁が出ているという致命的なハンデを背負いつつも、なんとか解ききった(だから実質は1位みたいなもんだと思う)。ファルマンは途中で放棄し、ピイガは最後まで奮闘していたが、最終的に鼻血を出して泣いた。ものすごい負けん気だと思った。
 最後に祖母も含めてみんなで集合写真を撮り、お開きとなった。一族のお盆の集い、というのがしっかりできた感じで、とてもよかったと思う。

2026年8月17日月曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 3日目 8月12日 前編


 結局台風15号に関し、まみえたな、という感触はないまま終わったのだけど、ニュースでは宇都宮駅の大木が根元からぽっきり折れたりしていたので、おそろしかった。ちなみに世にも珍しい東から西に向かう逆走台風の特徴として、台風一過的なものは一切ない、というのがあるそうで、台風の本体が関東を通り過ぎたはずのこの日も、あまりすっきりしない空模様だった。
 そしてこの日はわりと書くことが多い。なぜなら家族がだいぶ別行動をしたからだ。
 まずポルガは、だいぶ前から宣言していた、ひとり東京社会科見学を実行した。具体的に言うと、国会議事堂と靖国神社に行ったそうである。だいぶ思想が強いセレクトで、親ながらびっくりするが、どうやら最近、近代世界史・政治史みたいなものにハマっているようで、本当は市ヶ谷の東京裁判の見学ツアーにも行きたかったらしいのだが、予約がうまいこといかず、仕方なく靖国神社にしたらしい。1年の中で、だいぶピリピリ感の強いタイミングの靖国神社なんじゃねえかなー、という気はしたし、そもそも東京の電車や町をひとりで大丈夫か、という不安はあったが、本人のついてくるなオーラがすごかったので、あざみ野駅までの見送りだけした。ポルガは出発前に電車の時刻表を調べようとしたので、田園都市線は時刻表を調べなくていいんだよ、と説明した。目の前の電車を乗り逃しても、5分以内に次の電車が来るんだよ、1時間後とかじゃないんだよ、と。あと国会議事堂なら永田町駅なので、渋谷から半蔵門線直通で1本なのだが、どんなに説明しても、半蔵門線直通というのがピンと来ないらしく、最後まで「渋谷駅で半蔵門線に乗り換えるの?」などと訊いてくるので、どうしたって不安は募った。こんな島根の大自然の中でのびのび育っている子を、ひとりで東京なんかに解き放っていいのだろうかと。結果としては、予定していたふたつの施設はもちろん、それらのエリアにあるいろいろな建物も目にしたそうで、とても満足した様子で無事に帰ってきた。よかったよかった。まあポルガはすっかり田舎ナイズされているが、実は東京生まれだったりするし。
 どうして急にそんなことを言い出したかと言えば、残された3人は、他ならぬポルガ生誕の地である練馬に行ったからである。帰省前の日記にもチラッと書いたが、去年、いきなり声を掛けて、慌ただしく再会した友達と、今年こそはきちんと態勢を整えて会おうということになり、落ち合う場所をどこにするか、直前にやりとりしたのだけど、うまくまとまらず(横浜駅という案を僕が拒んだというのもある)、とりあえずわれわれが、向こうの居住地である練馬まで行き、そこから先のことは会ってから決めようという、結局1年前とあまり変わらないフワッとした事の運びとなったのである。
 そしてこれは、同時に僕の耳鼻科行きという用件も兼ねているのだった。復路の長い運転のこともあるし、とにかく悪化させるわけにはいかないので、暦の上では平日であるこの日(13~15日はお盆として)に、絶対に医者にかかったほうがいいという話になり、僕はそういうのがとにかく苦手で、ファルマンが調べてくれたのだけど、実家の近くの耳鼻科という耳鼻科は、既に夏休み期間に入りどこも休みであるのに対し、練馬区にはわりとやっている耳鼻科があるということで、ならば友達との待ち合わせ時間に先んじて練馬に入り、僕は耳鼻科へ行き、その間ファルマンとピイガには周辺で適当に過してもらおう、という算段になった。そんなわけで待ち合わせは午後だったが、9時くらいに実家を出発する。ちなみに車である。僕は僕ですっかり田舎ナイズされているので、なるべくなら公共の乗り物に乗りたくないのである。実際この1年間で、昨夏の池袋練馬ツアーでしか、電車というものに乗っていない。だから練馬へももちろん車という発想になる。そもそもあざみ野から練馬というのは、副都心線を使ったとしてもあまりアクセスはよくないのだ。
 練馬へは1時間あまりで着いた。練馬にファルマンと住んでいた当時、実家に顔を出したとき(帰省という言葉を使うような距離感ではなかった)、帰りは荷物が多くなるので母が同乗して車で練馬の住まいまで戻る、ということを何度かやった。今回、十数年ぶりにやった実家から練馬までの道程は、もちろん道など覚えていないので、Googleに丸投げだったのだけど、たぶんほとんど違う道で、残念ながらおもひではぶぉろろぉぉんしなかった。
 耳鼻科の予約時間まで少し余裕があったので、ファルマンとピイガを中村橋まで送った。ふたりはここで練馬区立美術館に行ったそうだ。ちなみにだが、開催されていた企画展は、だいぶ高尚すぎる現代芸術的なやつだったそうで、ぽかーんとしたそうである。
 そして僕はひとり耳鼻科へ。短い問診ののち、僕の左耳の中を覗いた60代くらいの女医は、「きたなっ」と驚きの声を上げた。耳鼻科の先生が思わず「きたなっ」と言ってしまう俺の耳の穴。なんか、傷とか膿とか、とにかくだいぶエグい感じの、外耳炎になっているらしい。とりあえず液体を吸引してもらい、点耳薬を処方してもらった。「島根に帰ったらそっちでも診てもらいなさい」とも言われた。「実家はどこなの?」とも訊かれ、「横浜です」と答えたら、「島根に住んでて、横浜の実家に帰省してて、それで練馬の耳鼻科に来てんの? なんで?」とツッコまれた。自分でももうよく分からない。いろいろあるんだよ。とりあえず医者に診てもらったという、その一点でだいぶ安心感が得られたのでよかった。
 薬を受け取ったところでファルマンに連絡を入れると、友達と連絡を取り合った結果、既に来ていることを知った友達が早く出てきてくれて、ちょうど合流したタイミングとのこと。それでこれからどうするのかと訊ねたところ、友達の案内で今日は飯田橋界隈の街巡りをすることになった、という答えが返ってきた。
 飯田橋! ぜんぜん馴染みがないが、練馬よりも都会であるということは察せられた。たぶん、車で行くような街ではない。地図で確認すると、同じ画面に靖国神社が表示されたのでおもしろかった。ポルガとニアミス! と思うと少しワクワクした。
 しかし飯田橋。飯田橋の街巡り。どうしよう。俺はいったいどうすべきだろう。駐車している車の中で、しばしの間、僕は思案した。
 後編へ続く。

2026年8月16日日曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 2日目 8月11日


 起きて世界がぐわんぐわんしていなかったのでとても安心した。血行をよくしたほうがいいはずだという言い訳を頭の中で唱えながら、朝風呂に入った。気持ちよかった。こちらの体調不良、それによる精神不安などはあったが、それでもやっぱりキャッスルイン豊川は快適だった。ちなみに今回で4泊目。なかなかのものである。
 出発時点で空は薄曇り。しかしこれから関東に進んでいくわけで、どこかで崩壊は訪れるのだろうと覚悟しながら、実家に向けて出発する。耳汁は相変わらず出ていたが、運転には支障がなかった。なにしろ運転できるのは自分しかいないのだから、気張らなければならないのだ。
 ちなみに去年はこの日の移動の途中で、清水のちびまる子ちゃんランドに寄った。今年もここにひとつ経由地を計画していた。しかし天候が天候なのでたぶんダメだろう、おとなしくまっすぐ実家に向かおう、と昨晩や朝の時点ではあきらめていた。ところが実際に車を走らせ、空の様子やニュースを眺めるにつけ、どうやら大丈夫そうだぞ、ということになり、やっぱり当初の目的を実行することになった。
 横須賀市は浦賀にある、ペリー公園および記念館である。
 横須賀市は、そのまままっすぐ進めばすぐに横浜青葉ICとなる、ひとつ前の横浜町田ICで降りて南南西方面、すなわち三浦半島を突き進むわけで、よく見るとぜんぜん通り道ではない。純然たる寄り道である。しかしわざわざ実家からペリー公園に行くかと言われたら絶対に行かないわけで、大移動の勢いとしか言いようのない、4時間が5時間になってもそんなに変わった気がしないよね、みたいな謎の理論で実行された。ちなみにリクエストしたのはもちろんポルガである。ポルガ以外の誰がペリー公園に興味を持つというのか。
 そんなわけでたぶん生まれて初めて足を踏み入れた横須賀市は、なんとなくギラついた若者の街のようなイメージがあったのだが、実際はわりと色彩の少ない、地味で落ち着いた印象だった。たどり着いた浦賀には海岸があり、実際にそこなのかは知らないが、いまから173年前の1853年に、このあたりに黒船が来たんだなー、そうかー、浦賀って本当にあったんだー、思ってたより近かったんだなー、横浜の教師ってぜんぜんそういう臨場感とかを伝えなかったんだなー、という感想を抱いた。砂浜から道を挟んですぐの所にペリー公園はあり、その敷地内に大きな石碑と記念館が建っていた。ちなみに記念館の入館料は無料で、つまりそこまで力の入った施設ではなさそうで、はっきり言って全体的になかなか渋いスポットだった。それゆえにディープだし、それでいてネームバリューだけはあるので、「浦賀のペリー公園に行ったことがある」というのはなかなか貴重な称号かもしれない。もっとも来年の大河ドラマは小栗忠順なので、多少はこのエリアも盛り上がる可能性がないことはないかもしれない、とも思う。ポルガは行けて満足したようだったので、まあ行ってよかったかな、と思った。
 浦賀を後にして、実家へと向かう。1時間くらいだった。マジかよ、実家とペリー来航の地は、車で1時間なのかよ。
 実家には母と祖母、そして甥がいた。中学2年生である甥は、去年よりもだいぶ成長していた。身長は8cmくらい伸びたと言っていたか。ただし本人の気性か、令和はそういうものなのか、あるいはそれはまだ先なのか、思春期男子特有の「はあ? ちげえし」的な、朴訥で生意気なあの感じはぜんぜんなかった。と言うか、いとこ一家を出迎えるために祖母の家にひとりで先に来ている、という時点でそのモードに入っているはずがないのだった。
 やがて叔父も来て(母が迎えに行って)、そして姉夫婦と姪もやってきて、初日ながら一族が揃った。「来年はもういない」としきりに言う97歳の祖母も含め、みんな相変わらずだった。なによりなことである。晩ごはんは定番の手巻きずし。おいしかった。
 夜、敷いた布団の上に、持ってきたマットを乗せた。去年、実家の布団のあまりの硬さを嘆き、絶対に折り畳みのマットを調達して持っていこうと心に誓ったが、本当に購入し、実行したのだった。子どもは別にぜんぜん平気だというので、ファルマンと僕、2枚分である。これがすごくよかった。厚さ3cmほどの、ごろ寝用低反発マットみたいなものなのだが、あるとないとでは大違いだった。特に今回、耳の不調で眠りが浅かったり、体がいつもよりダメージを負っていたので、あって本当に助かったと思う。いい買い物をした。

2026年8月15日土曜日

2026年夏の自家用車横浜帰省 1日目 8月10日


 今年も無事に決行され、そして戻ってくることができた、本州横断帰省であった。
 ちなみにこの「無事に」というのは、あくまで決行されたか否かの部分にだけ掛かっていて、道中で何事もなかったという意味ではぜんぜんない。わりと波乱に満ちていた。
 2年前、初めてこの形式での帰省をしたとき、お盆の1週間前くらいに宮崎県で大きな地震があり、それは南海トラフ地震の前触れかもしれないから警戒するように、などと言われ、そんなタイミングで山陰に住むわれわれが、近畿および東海地方をひた走って関東の実家に行くのかよ、という状況の中、それでも実行し、結果的に南海トラフはなかったのだけど、復路である横浜の実家を出発する際は、関東に台風が接近していて、東海道新幹線が計画運休などする中を、ギリギリでかわすように豊川まで脱出するという、なかなかのアドベンチャーがあったが、今回もそれを彷彿とさせるレベルでスリリングだった。
 なんてったってこの進路である。


 わが家は地方から関東に帰省するので、主流のそれとは逆ということになり、たしかに高速道路では反対側の車線にばかり渋滞を目にするのだけど、今回発生したこの台風もまた、見事な逆走なのだった。こんな進路、記憶の限り見たことがない。実際、茨城県に台風が上陸したのは今回が統計史上初めてだったそうだ。茨城の台風処女が喪失したのだと考えると、少し面映ゆくもある。
 通常通りの、西から東に進む台風ならば、数時間程度にしろ、できる範囲で予定をずらして対応することもできるだろうが、真っ向からやってくる相手には対処のしようがない。正面から立ち合って、がっぷり四つの構えを取るしかない。要するに、なすがまま、ということである。それにしたって本当にすごい進路だ。ほぼわが家の通ったルートじゃないか。ご丁寧なことに、熱帯低気圧に変わるのは山陰沖だという。もしかするとわが家の道程は、台風のための露払いだったのか。そしてなぜ僕はこんなに台風を相撲に喩えるのか。
 それで、実際に移動の際の天候はどうだったかと言えば、10日の時点ではまだ台風は太平洋沖にいたので、そこまでではなかった。往路の宿泊先は安定のキャッスルイン豊川だったのだが、9時にこちらを出発し、幾度かの休憩を挟みながら、目立った渋滞もなく、最後に少しだけ雨はあったものの、16時前には到着した。
 それ自体はとても順調だったのだが、ひとつ問題があり、僕の耳が爆ぜたのである。
 急になにを言い出したんだ、という話だが、実を言えば前兆はあった。半月ほど前から、左耳が詰まるような違和感が時折あって、嫌だなあと思っていた。それで、いま思えば絶対によくなかったのだが、詰まっている感じのなにかを排除しようと、わりと綿棒をやっていた。さらにはひとつ前の記事で報告したように、あろうことかそんなタイミングでプールに行ったのである。これもきっとよくなかった。だからたぶん、出発の時点で僕の耳の状態はだいぶよくなかったのだと思う。そこへ、ふたつだかみっつだかの台風に取り囲まれた日本の、起伏のある道を爆走したのである。それはもう、爆ぜるよ。走っている途中で、詰まるとか、プツプツする感じとかとは別種の、物理的な違和感を感じて、ティッシュを耳にあてたら、嫌なにおいのする無色の液体が出ていた。うひゃあ、と思った。
 ただ液体が出るだけで、痛みなどは特になかったため、1年ぶりのキャッスルイン豊川で、サウナに入ったり、ビールを飲んだり、という部分はしっかり堪能した一方で、部屋のベッドで横になり、左耳から液体が滲み出る感触を気にしながら、「悪化したらどうしよう」という絶望に近い危機感を抱いていた。想起したのは2015年の夏にやった、めまいだ。めまいになったらとても車の運転などできない。だが、できなかったらどうするのか。だって6時間あまりかけて愛知県に来てしまっているのだ。愛知県に車を置いて、電車で帰り、回復してからまた取りに来なければならないのか、などと暗澹たる想像が浮かんだ。このとき、その不安を実際に口に出すことはなかったのだけど(けなげだなあ)、旅程の最終盤、どうにか自宅に帰ることができそうだという算段がついたところで、「実はあのときそういう恐怖を抱いていたのだ」とファルマンに打ち明けたら、「そんときゃ私が運転したわ!」と即答された。そう即答されて、自分があんな状況に置かれてもなお、ファルマンに高速道路を運転させるという選択肢が、頭の中にほんの一片も存在しなかったのだと気づいた。たぶん僕の中でファルマンの持っている免許証は、「オートマ限定」であると同時に、「子どもの送迎がメインで、あとはせいぜい銀行と病院くらい限定」で、高速道路は(法律上)運転できない区分なんだと思う。それくらいその発想が抜け落ちていた。
 幸いなことに、結果として悪化はせず、めまいも起らず、ファルマンにハンドルを握らせることもなく済んだ。しかし翌日に待ち受ける台風との正面衝突も含め、なかなか不安感の強い、1日目の夜だった。