2026年6月28日日曜日

よかった週末


 6月の最終週末であった。
 先週、週末の伸びが足りない、みたいなウザったい嘆き節をしたが、それでは今週はどうだったかと言えば、安心してほしい、これがだいぶよかった。今週はちゃんと一発が出た。
 なにしろ土曜日におろち湯ったり館に行ったのが効いている。前回の想定外のハズレを経て、今週こそは間違いあるまいと狙った木湯は、果たしてきちんと木湯で、そして半年以上ぶりとなった木湯は、やっぱり超絶によかった。サウナも、2階の外気浴のデッキも、岩湯に対して木湯はあまりにも優位すぎる。木湯の良さを堪能したあとでさえ、さすがに差があり過ぎではないかと気を揉むほどだ。いつぞやもそうだったのだが、木湯のそれがあまりにもよいがゆえに、1回目のサウナと水風呂と外気浴で、あっさりとイカされてしまい、時間を持て余すほどだった。18時頃に施設に到着して、本当はもっとゆっくり、ほぼ夏至の長い夕暮れをゆったりと堪能するつもりだったのに、1回でキマってしまったので、なんか逆に、言葉は変だが白けてしまって、思っていたよりも短い時間で退館してしまった(帰り道の、ほぼ家の近所あたりで、ようやく求めていたような暮れなずむ空になった)。それっていいことなの? と問われれば、もちろんいいことなんだと思う。筋トレと一緒で、長くやればいいってもんじゃない。短い時間でぐわっと効果が得られれば、それに越したことはないのだ。あまりにもスピーディーに、流れるような動作で仕上がってしまったので、最初から最後までオートメーションにベルトコンベアに乗って製造されていく工業製品のような気持ちになった。流れの途中にある巨大な長いオーブンで、動きながら焼かれるやつ。今回のサウナはそのくらい効率がよかった。
 帰宅後は、先週に引き続き、と言うか先週の余りを冷凍していた分で、僕だけ鰻丼(家族には別のものをきちんと準備した上で繰り出している)。休日にサウナに行って、帰宅後に鰻丼を食べてビールを飲むのである。これが一発でないのだとしたらなんなのだ。
 そんなわけで土曜日だけでだいぶ勝ち確だった週末なのだけど、そのうえ日曜日もあって、なにをしたかと言えば、先ほど記事をアップしたが、このひと月ほどまあまあ停滞感を抱いていた水着製作に関し、靄を吹き飛ばすようないい成果があった。これもだいぶ今週末の仕上がりの良さに寄与している。
 ただ、本当は別のことをするつもりで、なにかと言えば、先月の母の日を前に、母にリクエストを求め、その結果として作ることになったハンドメイド品を仕上げるつもりでいたのだが、流れ的にどうしても自分の水着の希求が優先になってしまい、そちらはままならなかった。そもそもリクエストの返答が来たのが母の日の数日前くらいで、「いつでもいいよ」という言葉はあったのだが、作ろうとしているのは夏物衣料ということもあり、さすがにそろそろ作って送るべきだろうという気持ちはあるのだが、さまざまな事由によって滞っている。まあ夏は来年もやってくるしな、残暑も厳しい折、なんなら盆の帰省の時に渡すんでも構わないよな、と思い始めている。
 とは言え母の日こそ蔑ろにしたが、あくまで自分本位の幸福度に関して言えば、晩ごはんを餃子にしたので、それも当然ながらものすごく美味しくて、大満足だった。
 サウナ行って、うなぎ食べて、ビール飲んで、水着作って、餃子食べて、ビールを飲んだのだ。いったいそれ以上のなにを望むというのか。とてもいい週末だった。

ボックス!


 年末年始に極北ボックスパターンを完成させて、ほぼ半年。この間、せっせとそれを作り続けてきた。通し番号をつけるようにしたので分かりやすいが、出品している現在の最新作は137番。極北ボックスは101から番号をスタートさせているので、37枚ということになる。ちなみにだが、縫製がほぼ終わり、あとはジョニファーに穿かせて撮影するだけ、みたいな状態のものが実は9枚あるので、146番まで行くのは確実だ。
 でもそこで極北ボックスはおしまい。
 突然の爆弾発言。説明をさせてほしい。
 ブログは収束と拡散を繰り返す、という例の理論があるでしょう。水着作りにもそれと同じような波があるのだという真理に到達した。すなわち、
『水着作りは枯渇と飽和を繰り返す』
 である。
 今からひと月ほど前のことなのだが、実は極北ボックスのパターンを少し修正した。同じものを何十枚も作っていると、ネジの頭がなめるように、自分の中のなにかが摩耗してくる。そして摩耗することで、行けていた地点に行けなくなるかと言えば、実はその逆で、別にこじ開けようともしていなかったエリアのドアが、勝手にこじ開いてしまうのである。そういうときというのは、物質ではない、思念的なものでドアをこじっているのだと思う。超感覚的知覚。言わばエスパーである。
 極北は、極北だから極北なのに、エスパーなのでその先の世界に行ってしまった。あんなにも苦心して到達した脇の幅を、さらに削ってしまったのだ。このひと月に製作した、すなわち出品前の9枚は、それで作っている。出品時にこれまでのものと区別をするつもりはないが、実は一線を超えている破滅の子たちである。
 そう、破滅。力の暴走は破滅をもたらすのである。だって極北の先なんてないんだもの。
 思えばいつもこんなふうにしてステージは幕を閉じる気がする。マンネリ化し、停滞して、それを打破するために暴走して、破綻する。たぶん地球も最後、こうやって終わるんだと思う。でも地球が終わっても世界は終わらない。物質のカスが集まって新しい星になるように、新しいステージの幕は開く。
 話が飛ぶが、最近になって平泳ぎに強い関心を持っている。これまでクロール一辺倒だったのだが、先日NHKでやっていた水泳の日本選手権を眺めていて、自由形の選手よりも平泳ぎの選手のほうが理想の筋肉の感じに近い気がすると感じ、そう意識して平泳ぎをやってみたら、腕を広げて水を抱えながら前方中心まで持っていく動作は、ダンベルフライのそれに似ているのではないかと気づき、泳ぐことと筋トレを同時に叶えるという願望をなんだかんだで未だに捨てきれずにいるのだが、もしかすると平泳ぎはわりと筋トレになり得るのかもしれないと考え、これからはクロールと並行して平泳ぎも積極的にやっていくことにしたのだけど、それにあたり極北ボックスというのは、それこそ昨年末の苦心の果ての産物なのだが、脇の幅を狭めるためにずいぶんなハーフバック仕様になっていて、それは基本的に膝から下を上下に動かすだけのクロールならば別に問題ないのだけど、根元から大開脚する平泳ぎとなると、さすがにその露出は少し差し障りが出てくる感じがあり、居心地の悪さを抱く原因となっていた。この半月ほどプールから足が遠のいていたのも、そのあたりのことが少なからず要因になっていたかもしれない。
 すなわち、飽和の瞬間はさまざまな方角から、じわじわと忍び寄っていたのである。
 というわけで、極北ボックスに代わる、新しいパターンを作ることにした。
 これまでの話の流れから分かるように、今回は面積を削ることが目的ではない。逆に増やすのである。平泳ぎで大開脚しても大丈夫なように、尻はしっかりと蔽う。そうなれば脇の幅もどうしたってこれまでよりも太くなる。それでいて野暮ったくない形状を目指したい。
 コンセプトは回帰。
 昨年の秋口、『観測者によってビキニかボックスかが定まるシュレディンガー水着』として、つまるところビキニ型だった水着を15枚ほど作り、そこから少し面積を増やして極北ボックスへと帰着したという経緯はあったにせよ、基本的にこれまでの水着パターンの進化の歴史は、面積縮小の歴史であった。「初期→新パターン→新々パターン→(シュレディンガー→)極北」と、徐々に布の面積は小さくなっていった。それは言い換えれば枯渇の歴史であった。
 しかし今回は違う。確固たる理念の下、面積を増やすのである。
 であれば、それはつまり逆戻り、すなわち極北が飽和したというのなら、新々パターンに戻せばいいのではないか、と思われるかもしれない。もしそれでも足りないというのなら、新パターンだってあるだろう、と。
 しかしさすがにそういうわけにもいかない。僕は来た道をそのまま戻るのではない。山を登ったとして、登ってきた斜面をそのまま下りるのではなく、頂上は単なる通過点として、その先の地平を行かなければいけない。たとえ新パターンや新々パターンと、標高的には同じでも、それは新しい未知なる世界であるべきだ。
 もちろん参考にはした。まっさらの画用紙に、極北ボックス、新々パターン、新パターンと、歴代の3つのカットゲージのラインをそれぞれ書き込み、そしてそのどれとも異なる新しい線を引いた。
 思い描いているのは長方形である。ボックスの名に悖らない、穿いたとききちんと箱の形になるようにしたい。
 こんなふうに。


 対話型生成AIに頼んで作ってもらった画像なのだが、まあまあいい線いっている。構造的に股下の、蟻の門渡りの部分は、画像のようにいくらかは下に出っ張る感じになるが、それ以外の部分では水平を保っている。長方形である。なるほどボックスだな、と思う(ちなみにだが、肌との対比を考え紺色を指定したせいもあるかもしれないが、脚ぐりの水平を求めるということはすなわちローレグであるということもあり、なんとなくスクール水着を連想させ、また画像をよく見ると腰周りを蔽うスカート部分と股下部分でパーツが分かれているようにも見え、だとすればこれはいわゆる旧スク水の一大特徴である、水抜き穴を持つ仕組みになっているのかもしれないと考えると、今回の製作のコンセプトとはぜんぜん異なるけれど、また新しい扉がこじ開けられる気配を感じないでもない)。
 ということで、そんな理念の下、できあがったのがこちらである。


 イメージ画像では肌との対比のことを考え紺色にしたくせに、実際の試作ではこんな生地を使うものだから少し分かりづらいが、見てのとおり、だいぶ水平である。だいぶ長方形である。
 ちなみにこの生地では、かつて新々パターンを製作し、出品していた。今回の新作は、極北ボックスよりも新々パターンとの比較で捉えたほうがいい。それがこちらである。


 新々パターンは脇の幅が今回の新作よりも短く、かつ脚の内側の裾が少しだけ長いため、それを繋ぐために、どうしてもラインが斜めになっている。この問題を解決したのが今回のリニューアルである。
 少なくともぱぱぼとるよりも上の陰毛は剃ることを前提としたローライズ仕様で、かつ正面から着用姿を見たとき、なるべくただの長方形に見える水平を目指すとき、望むことのできる最小限の幅は、陰茎の付け根のすぐ上から、陰嚢の下部側の付け根までの、立体感を無視した上での直線の長さである(下図、矢印)。


 これが何cmだったか。
 それは8cmだったのです。つまり目指すべきは縦が8cmの長方形。平面として眺めたときそう見えるようなパターンを希求した。
 横から見るとこう。


 水平である。少しフロントのあたりが下がってV字のようになっているのは、股間部に入れたスライムの重みのせいであり、実際はここまでのことにはならないと思う。
 後ろはこう。


 後ろはさすがに水平じゃありませんよ。この1年以上囚われていたハーフバックの呪縛から解放され、尻たぶはきちんと蔽うことにしたのだ。尻というのはフロントよりも縦幅が長くできている。後ろの布も8cmにしようと思ったら、上からは尻の割れ目が覗けるだろうし、下は尻たぶを今まで以上に晒すことになるだろう。そういうわけにはいかない。しかし脇の幅が、極北ボックスはもちろんのこと、新々パターンよりも長い8cmなので、尻をしっかり蔽っても、まったく無理のない自然なラインとなっている。なるほどこれは、着実に山を登ってきたからこそたどり着けた、頂上の向こう側の世界なのだな、と改めて思う。
 というわけで前述の極北ボックスの残りの9枚を出品したあとは、このパターンが新しい主力商品となってゆくものと思う。ただしそちらを片付けて、改めて裁断からなので、本格的な始動はまだもう少し先のことになるだろうと思う。でもちょうどいい。なぜなら、商品名が思いついていないからだ。ボックス水着というものの原点回帰を目指して作ったパターンだが、「ザ・ボックス」ではダサいし、ましてや「シン・ボックス」など目も当てられない。これについてはおいおい考えていこうと思う。
 ちなみにだが、今回の新しいパターンに関し、実はもう一点、これまでの流れを断ち切る大きな変化をした部分があるのだが、それについて語るとさすがにこの記事だけが長大になりすぎるので、それについては別で語ろうと思う。
 とりあえず半年の区切りのところで、いい展開を起すことができ、とても満足している。

2026年6月21日日曜日

父の日と散髪と26歳


 梅雨前線なのだか台風の影響なのだか分からないが、空気がとてももったりしていて、気分がまるで上がらない、そんな父の日であった。思えば筋トレもしなかったし、プロテインも飲まなかった。あ、裁縫もしていない。僕はいったいなにをしていたのだろう。プールも、そろそろ行ってもいいような気持ちがあったが、やっぱりもう少しゲージが貯まってからのほうが効果的なような気がして、この週末は足が向かなかった。もちろんワールドカップの試合も観ていない。
 このところ週末がいまいち堪能できていない感じがあり、よく野球のニュースなどで、「悪くない当たりでしたが、もう一歩伸びが足りず、ライトフライに倒れます」という言い回しがあるが、そんなもどかしさを抱き続けている。GW以来、3連休的なものとしばらくご無沙汰だからだろうか。もしそうなのだとしたら、僕はずいぶんと変わってしまったことだ。いま読んでいる26歳当時の日記では、僕は2010年の年始、3日から労働をし、4日の勤務ののち新幹線に乗り込み、深夜に出雲に到着して、そして6日の朝には練馬に戻るために特急やくもに乗り込んでいた。今だったら絶対にしない弾丸スケジュール。そして7日からはもちろん出勤である。サービス業だった当時は、あまり疑問にも思わずそういうことをしていた。あまつさえ1月7日付の日記には、『実質2日休んでいただけなのに、1週間くらい休んでいたような気持ち。』という記述さえある。なんだか胸が締め付けられる思いだ。愛しい。愛しいし、そして申し訳ない。2日程度の休みでは伸びが足りずライトフライ、ではない。お前が悪い。そうだ、俺が悪いのだ。
 そんな自省の気持ちが高まり、そしてなにより、もったりした気候にいよいよ音を上げたというのもあって、冬から伸ばし続け、日中は結んで過していた髪を、とうとう切ることにした。こう書くとまるで理性的にそういう判断をしたかのようだが、実際は先ほど、夕飯後にシャワーを浴びて、髪を洗い、さらにはコンディショナーまでした段階で、まるで「エウレカ!」と叫ぶような感じで、「もう髪、切る!」というほうに針が振れ、すぐにコンディショナーを流し、浴室から出て、ファルマンに「今から髪を切ってくれ!」と頼んでやってもらったのである。そのくらい突然訪れた。今回はこの訪れまでに時間が掛かった。このところずっと「もう見苦しいから切れ、切らせろ」と言い募っていたファルマンは、「やっとか、よしきた」という感じで切ってくれた。そして再び髪を洗った。これまでの長い髪では、なんだか内側のほうは洗えていないような感覚があったのだが、短くなり体積の減った髪ではそんな心配もなく、とてもすっきりした気持ちになった。なにより鏡に映った姿が格段に若々しい。「もっと早く本気でたしなめてくれればよかったのに」とファルマンに言ったら、「ずっと言っとったじゃろがい!」みたいな感じでキレられた。人からの忠告って、どんなに正しいことでも、自分自身がピンと来るまで、本当に耳に入らないよね。
 まあそんなわけで、最後に心機一転できて、最終的に前向きな気持ちになれた週末だった。父の日ということで晩ごはんは鰻丼にしたし、明日から元気を出していこうよ、という感じ。誰がそんな言葉を僕にかけてくれたのか。それはたぶん26歳の僕なんだと思う。ああ愛しい。

宇佐木学園ぴょんぴょんブログを読み解く(2) ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 前回の記事で触れたように、「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」は3つ存在したのである。
 大神版、中埜版、をとめごら版である。
 3ブログともすべて時間軸は同じで、宇佐木学園を舞台にした、6月1日から8月31日までの日々を描く。異なるのは視点である。
 まず大神版は、学園唯一の男性教諭である大神を主人公に、彼と生徒である少女たちとの交歓が描かれる。大神先生が何歳で、専門の教科は何で、そしてなぜ彼だけが唯一の男性として学園に存在しているのか、という説明はない。それは特に定める必要はないものと判断したのだろう。きっぱりしている。その代わりにこういう設定がある。
『大神先生の陰嚢に触るとしあわせになれる』
 宇佐木学園の少女たちの間では、何代にも渡ってそんな伝説が語り継がれてきたという。この設定があることで、大神と少女たちがそういう行為をすることに合理的な説明がつく。ただし少女たちが本当にしあわせになりたくて大神を求めるのか、あるいは大神を求める言い訳としてこのような伝説を捏造したのかは定かではない。たぶんどちらも真実なのだ。ちなみに大神はもちろん精力絶倫の成人男性なのだが、それでも全校で約1200人いる少女たちが無作為に殺到しては収拾がつかないため、少女たちの自治により協定が組まれ、朝に大神の部屋に入って朝一番の陰嚢の恩恵を得る生徒は、事前の予約申し込み制となっており、その競争率はかなり高いという。
 次に中埜版は、1年まごころ組に在籍する中埜新が主人公なのだが、実はこの中埜新、歴とした男の子である。そんな新がなぜ女子校である宇佐木学園に通うことになったか。その理由は、「なぜか」である。これもまた、特に説明していない。多少、「名前が中性的であるのに加え、顔も美少女のようにかわいらしい」という取って付けたような言い訳もあったが、基本的にそんなことはどうでもいいと思っていたのだろう。同感である。エロ小説の主人公が女子校のたったひとりの男子生徒である理由は、彼がエロ小説の主人公だから、以外に存在しない。そして新が男の子であることは、学園および大神という大人側には絶対に知られてはならない秘匿事項なのだが、しかし少年のルームメイトである南野みちるはもちろんのこと、ほぼすべての生徒には知れ渡った事実である。それはなぜかと言えば、中埜新には「すぐに服を脱いで裸になってしまう」という悪癖があるからである。記事を読むと、たしかに新は本当によく裸になっている。そして全寮制女子校唯一の男子である13歳の少年が寮内で裸でいるとどういうことになるかと言えば、それはもう当然の帰結として、主に年上となる無数の少女たちから、だいぶ気さくにちんこをいじられることとなる。これは本当に当然の帰結である。ちなみにだが、僕がCFNMという性的嗜好の名称を知り、それをロゴにしてTシャツに仕立てることまでしたのは今年に入ってからのことだが、実はこの頃から明確にその嗜好は持っていたということになる。
 これが大神版と中埜版ということになるが、なぜふたつが必要だったのか、ここまでの説明で理解していただけたと思う。触れるとご利益があるとさえ言われる神聖な巨根を誇る大神と、少女のような見た目でカジュアルにおちんちんを出してしまう新、僕のちんこは、そのどちらのちんこでもある。まったくベクトルが異なるそのふたつの願望は、ひとりの主人公では決して叶わない。だから視点を分けなければならなかった。
 ちなみにだが、作中にいちどだけ、大神と新が直接絡むシーンがある。中埜版7月18日の身体測定の場面である。宇佐木学園のすべての生徒の胸囲を計測するのは大神の担当であるため(熟練のテクニックによってものすごいスピードで少女たちを捌いてゆくのだ)、生徒のひとりである新もまた、どうしたって大神による計測から逃れることはできない。

「次」
 気が付くと目の前には誰もいなかった。大神先生がつまらなそうな顔でこちらを見下ろしている。
 新はおずおずと大神先生のほうに歩み寄った。
 その瞬間、前に並んでいた少女たちがされていたように、左肩を抱き止められ、右手が背中に回される。背中を突かれる感覚はほとんどなく、スワッとした感覚がしたかと思うと、既に新の胸からはブラジャーが姿を消していた。遠目に見ていたときから感心していたが、いざ実体験してみて改めてすごいと思った。なんというテクニックだろうか。それからメジャーが胸に這わされる。メジャーは冷たいのかと思いきや、朝からずっと少女の胸に巻きつかれているためだろう、むしろ温かかった。
「70.2」
 大神先生が無感動な口調で計測値を読み上げた。

 ふたりの邂逅が描かれたのはこれきりなのだが、このあとさらに物語が紡がれていたら、ふたりはどういう関係性になったろう。たぶんどこかで大神は新が男の子だということを知るだろう。そのとき大神はどうするか。新、おまえだったのか、いつもくりとりすが異様に大きかったのは。みなさんもこのときの大神兵十の気持ちになって、物語の続きを考えてみましょう。
 さて大神版中埜版と来て、最後はをとめごら版である。これは特定の主人公を置かず、宇佐木学園の少女たちが代わる代わるに主役となる趣向のバージョンである。実を言うとこれは最初はなかった。大神版と中埜版をしばらくやったところで、女の子から見た宇佐木学園の風景も描かれるべきだな、と思い約2ヶ月遅れで開設された。
 しかしあとから理屈によって創設されただけあって、衝動的なエネルギーに欠ける感は否めない。ふたりの男の視点からでは描けない宇佐木学園を補完し、物語としての厚みを増やすという意義は解るが、下半身に直接作用しないのである。下半身に直接作用しないのならば、大神の人物詳細がないように、新が女子校に通うことになった説明がないように、それは不要なものだったということになる。エロ小説というものは、一言一句、すべてがひたすらにちんこを高めることにのみ捧げられるべきだからだ。
 しかし当時たしかに存在したものを、いまさらなかったことにはできない。これはこれで、おもひでぶぉろろぉぉんで振り返られる、僕のブログの記録である。をとめごら版も含めた3つのブログのそれぞれの性質を解説したところで、いよいよ次回からは記事内で綴られた宇佐木学園の風景について語っていきたい。

2026年6月20日土曜日

クソ文系・カマキリ・イモって


 生成AIの開発競争がすごいことになっているという話を、ニュースでもたびたび見聞きするし、ファルマンからもよく聞く(ファルマンは別に開発競争の関係者ではない)。競争は、会社単位、そして国単位の、凄絶な血みどろの様相を呈しているようで、生成AIのシュッとした利便性の陰には、なんだかものすごい体育会系の、文字通りの心血を注ぐような、数多の人々のエネルギーの凝縮があるらしい。ただしもちろん僕は文系なので、生成AIの開発に心血を注ぐという行為が、具体的に現場でどういう作業をするということなのかはぜんぜん分からない(生成AIの開発に限らず、この世のあらゆるデスクワークのことが分かっていない)。ぜんぜん分からないので、本当に短絡的でありきたりな発想になるが、「まるで魔法のようだな」と思う。そして「平成狸合戦ぽんぽこ」のことを思い出す。「平成狸合戦ぽんぽこ」の中で、物語中盤、四国から招聘した三長老を中心に、妖怪大作戦と名付けられた一大秘術を行なうシーンがある。変化できる狸たちがエネルギーを集結させ、壮大な妖怪変化を団地に出現させるのである。生成AIの開発競争の現場で行なわれているのは、要するにそんなことなのではないかと思っている。長老のひとりである隠神刑部は、心血を注ぎ過ぎたあまり、作戦の最中に血管が切れた感じで落命する。開発競争の現場でもそんなことが起っていそうだと思う。また最近よく言われる「デジタル人材」という言葉が、このイメージをさらに補強させる。開発競争はそれの奪い合いであると言われる。「平成狸合戦ぽんぽこ」の狸には、変化できる者と変化できない者がいる。それはデジタル人材かそうでないか、ということだと思う。変化ができるぽん吉は、人間に変化して、人間となって生きていく道を選ぶ。息苦しさもあるが、それはスキルを活かして時流に乗った生き方である。一方で変化できない狸は、山に残り、狸として慎ましやかに生きる(それ以外の生き方がない)。それは穏やかだが、山が開発されるような大きな力に対してはどこまでも無力だ。もっとも大きな力に対して無力でない存在など果たしてあり得るだろうか。デジタル人材が力を結集して作り出そうとしているものは、デジタル人材を必要としない世界なのではないかとも思う。君たちはどう生きるか。

 気温の高まりに身体がついていかず、だるさのある日々だが、とにかく去年の二の舞にはなりたくないという思いが強く、この状態の改善のために僕が先日から取っている方策が、なんと「たくさん食べる」というもので、このまま食欲までもが減退したら、いよいよ夏を生き抜くのがつらくなるのは目に見えているので、むしろもりもり食べて、体を大きく強くしようじゃないかと考えたのである。すばらしい心掛け。とにかくエネルギーを多く摂取して、余剰を体にもたらしたい。実は消化にこそ相当なエネルギーを使うから、本当はなるべく食べないほうがいいんだよね、聡い俺はそれを知っているから効率よく最低限の摂取だけをして、結果として洗練されたボディを維持しているんだよね、みたいな胡散臭い話はもういい。うるさい。ばーかばーか。わしは喰うんじゃい! 喰って元気になるんじゃい! そういう方針に舵を切ることにした。腹八分目はたしかに食べ終えたあとの身体が楽で、満腹は苦しいのだが、そうは言ってもたまには満腹にならなければ、食べられる量が増えていかないだろうと思い、ここ数日は意識的によく食べている。体重にはまだ現れていないが、なにより精神的にいい。こちとらよく喰う健全で頑強な生きものじゃい! という自信がつく。この自信だけを武器に、夏の太陽とやり合おうとしている。蟷螂の斧。

 2009年の日記を読んでいたら、「イモる」という表現があり、わ、と思った。
 もちろん本気で僕自身が「マジあいつイモってんだけど」というふうに使っていたわけではなく、この頃は共学の高校に対する憧れをこじらせ、挙句の果てには「共学短歌」というものを詠むほどだったのだが、そんな日々の中で、「「BiDaN」とか「Samurai ELO」とかに出ている男はわりと不細工なのに共学に通っているばっかりに彼女がいる」ということに怒りを爆発させる文脈の中で使用していたのだった。「イモる」も「BiDaN」も「Samurai ELO」も、もうなにもかもみな懐かしい。思わず沖田十三(宇宙戦艦ヤマト艦長)みたいな気持ちになる。もちろん当時26歳の僕が本気でこの雑誌を購読していたわけではなくて、なにぶん書店員だったので、手広く目を通していたのだ。いちおう名誉を守るために断っておく。
 ちなみにこのときの共学短歌というのががこちら。

 ・週6はマジできついし悪ぃけど今日は勘弁 指で勘弁

 ・ウチ マジで先輩のこと好きじゃけん一糸纏わぬ体育倉庫

 ・このあいだ原先輩の彼女さんに誘われてマジ イモって逃げたし

 すごい。なにがすごいって、共学の解像度の低さが我ながらすごいと思う。

宇佐木学園ぴょんぴょんブログを読み解く(1) ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 26歳になった僕の日記を、こつこつと読み返している。
 26歳になった僕は、日々「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」の世話に追われている。25歳の僕がこの世からいなくなる直前に生み落とした「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」を引き取り、自らが育てることにしたのだった。(「トモコレ」をそういう趣向でやっているせいで、年齢に対する捉え方が少し変容してきているのを感じる)。
 宇佐木学園。振り返れば、なかなかすさまじい企画であった。
 架空の中高一貫全寮制女子校が舞台なのだが、なにぶん架空なので、俺が理事長だったらこうするだろうという願望が、思うがままに投影されている。
 クラスは各学年6つに分かれていて、それぞれのクラス名は、僕が女の子に求めるものになっている。すなわち、「きよらか」「あざやか」「ほがらか」「すこやか」「まごころ」、そして「おもいやり」である。改めて眺めると、統一性がない。前半の4つの並びで考えるならば、あとのふたつは「たおやか」や「さわやか」、あるいは「はなやか」などでよかったんじゃないかと今なら思うが、据わりの良さをかなぐり捨ててでも、「まごころ」と「おもいやり」をどうしても入れたかった当時の青年パピローの心情に思いを馳せるにつけ、胸が締め付けられるような、特殊な感動がある。特にこれだけが5文字の「おもいやり」が泣かせる。なにがあったんだよ、青年パピロー。
 そして「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」は、6月1日から8月31日までの夏の3ヶ月間の風景を綴るものなのだが、この期間、生徒たちはもちろん夏服となり、その夏服というのもまた、クラス単位で変化するのだった。すなわち、「きよらか→ブラウス」「おもいやり→ワンピース」「まごころ→ポロシャツ」「ほがらか→Tシャツ」「すこやか→キャミソール」、そして「あざやか→ビキニ」という具合であった。これに関しても、前半の4つはまだいいが、問題はあとのふたつだ。それでもキャミソールは千歩くらい譲って認めるとしても、問題はビキニだ。あざやか組の生徒は、夏の間、ビキニ姿で学校生活を送るのである。音楽の授業で合唱するときもビキニ、家庭科の授業で調理実習のときはビキニにエプロン。ただし体育の授業で水泳のときは、逆にスクール水着に着替える必要がある。そして泳ぎ終えたあとはふたたびビキニに着替える。青年パピローのカルマが熱暴走を起しているな、としみじみと思う。
 ちなみにビキニの話が出たついでに言うと、宇佐木学園の期末試験はランジェリー姿で受けなければならない、ということが校則で定められている。世に言う「ランジェリー期末試験」である。これはこの年に始まった記念すべき第1回cozy ripple流行語大賞のノミネート語にも選ばれているのだが、どういう来歴の言葉かと言えば、アメリカに実際に存在するというランジェリーフットボールという競技の存在を知った僕が、ほかにどんな「ランジェリー〇〇」があればいいか考えた際、ファルマンにも意見を求めたところ出てきたもので、それが結果として宇佐木学園の校則に採用されたという次第である。つまり宇佐木学園の少女たちが下着姿で期末試験を受けなければならないのは、理事長夫人であるファルマンの思いつきによって、ということである。なかなかやりたい放題の理事長夫妻なのである。
 斯様に破壊力のある、宇佐木学園に関する振り返り、おもひでぶぉろろぉぉんは、いちどの投稿ではとても済ませられるものではない。これから何回かに渡って触れる必要がある。しかしどのように解説を展開していくのがいいだろう。「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」は実はひとつのブログではなく、「大神版」「中埜版」「をとめごら版」の3つに分かれており、まずはそれぞれのブログの性質について語る必要があると思うが、しかしこれら3つのブログは濃厚に絡まり合って存在しているので、ひとつひとつを単独で語るのは得策ではない。とにかく、とても慎重に読み解いていく必要がある。これから僕はしばらくこの課題に取り組んでいくことになるだろう。
 僕はいったい、誰に向けて、なにを説明しようとしているのだろう。

2026年6月17日水曜日

プール賢者タイム


 プールに行く意欲が減退している。
 どうも真夏日の気配が出てくると、そうなる傾向があるように思う。要するに暑さに身体がまだ対応できておらず、生きているだけで疲弊するので、泳ぐ余力、気力が残らないのだ。
 こんなときに無理に行ってもよくない。気乗りしない状態で行なうには、プールに行って泳ぐという行為は、あまりにも面倒である。泳ぎながら「なにがおもろいねん」と思ってしまったら、いよいよ決定的な亀裂が生じてしまう気がする。
 なので、プール行きたい、泳ぎたいという欲求が高まるまで、距離を置こうと思う。
 我ながら理性的な処断だなあと思うが、実は直近の経験則なのだ。
 今月の初め頃、鈴カステラに飽きた瞬間があった。これには自分でびっくりした。ある瞬間、ラクダの最後の一藁のように、僕の中のなにかが限界に達したようで、「もう食べたくない」と思ったのだった。パンダにとっての笹みたいなものだと思っていたので(同じくらいかわいいし)、俺が鈴カステラに飽きることなんてあるんだ、と意表を突かれた気分だった。
 そのためそれから2週間ほどは、鈴カステラ抜きで暮していた。鈴カステラを食べる主なタイミングは、出勤時の車内、プロテインを飲みながら、そのアテとしてなのだけど、この期間は代わりにみたらし団子やバナナを食べていた。それらはそれらで好物なので不満はなかったのだけど、2週間の別離でじわじわと、僕の中の鈴カステラゲージは思いのほか早く元の数値に戻ったようで、違うものを食べながら、「ここに鈴カステラがあればいいのに」と感じるようになった。なので週末、わざわざ無印良品に出向いて、まとめ買いをしてきた。久々に食べた鈴カステラは、相変わらずどこまでも僕に優しく、そして新鮮だった。長い付き合いをしていると、こういうこともあるのだな、と思った。僕と鈴カステラの、円熟した関係。もはや事実婚に近いのかもしれない。
 だからたぶんプールも、2週間、あるいは1週間ほどの空白を置いたら、ぜんぜん行きたくなるんだと思う。ほぼ全裸みたいな恰好で水に包まれる感覚を欲してたまらなくなる瞬間が必ず訪れる。その高まりを座して待とうと思う。男って身勝手なものですね。

2026年6月13日土曜日

続・逆ゆっこ話


 逆ゆっこ現象について書いた際、男にとってのちんこと女の子にとってのおっぱいがそれぞれ対応するが、さすがのゆっこもあかりのヴァギナには手を這わせない、だからヴァギナはすごいのだ、ということを書いたが、それでは女の子にとってのヴァギナに対応する男の体の部位はどこなのか、ちんこが既に出てしまっているのにそんな部位は果たしてあるのか、と考えたとき、ひとつだけその存在に思い至った。
 それは勃起したちんこである。
 これはとても据わりのいい考えで、なんてったって勃起したちんことヴァギナというものは、男女のそれぞれの体の部位の立ち位置みたいな概念以前に、切っても切れない、とても密接な関係性で繋がっているものだからだ。すなわち、成り成りて成り余れるところと、成り成りて成りあわざるところ。対応という意味ではここまで深く対応する部位は他にない。
 おっぱいに対応するのがちんこで、ヴァギナに対応するのが勃起ちんこというのは、ちょっととんちのきいた考え方で、なにしろ男のそれは、厳密にはひとつのものでしかない。ただ状態が変化しているだけである。そんなの答えとしてはズルいのではないか、という意見もあるだろう。
 しかしここで思い出してほしいのは、やはり逆ゆっこのことである。逆ゆっこはプールの更衣室で、友達の脚の間にぶら下がるちんこを触った。でもそれは勃起していないから触ったのだし、そもそも逆あかりとしても、仮に勃起をしていたらさすがに更衣室でふざけてぶらぶらさせないだろう。ただのちんこは同性しかいない場では普通に開示されるが、勃起したちんこはそうではない。ここには明確な分断がある。つまり平常ちんこと勃起ちんこは、存在する世界線が異なっているため、別物として扱うことに十分な妥当性がある。
 そしてゆっこがあかりのヴァギナに手を這わせない、あかりのヴァギナは常にあかりの脚の間に存在するが、ゆっこにとってそれは存在しないも同然であるように、逆ゆっこにとって逆あかりの勃起ちんこは、認識の埒外にある。分かりやすく言えば、基本的に男は、他の男の勃起ちんこを目にしないということである。
 ただしここまで考えたとき、次に議論の争点になってくるのは、ゆっこがあかりのおっぱいを揉むとき、それはあかりのバストの発育を調べるという大義名分があるわけだが、そのサイズ計測的な概念というものは、男の場合、僕が「Seventeen Centimeterian」というTシャツを着ていることが象徴するように、勃起した状態のちんこのものに他ならないだろう、ということだ。これが、長年にわたり数学者たちを悩ませてきた、「あいつのちんこはデカい」「あいつのちんこは小さい」などと男たちは語り合うが、男たちが互いに見せ合うところの、平常時のちんこに関してそんなことを言っても意味がないのではないか問題である。これについては前々から疑問を抱いていた。男は、(基本的に)男の観察下でフル勃起をすることはできないので、勃起の、ひいては男性器のサイズというものは、結局のところ自己申告に頼るしかないのに、それでも男たちはそれの大小について熱心に語り合う。かくいう僕も、気が遠くなるくらい前からずっと語り続けている。ここに男の悲哀がある。女の子のおっぱいのサイズは、日常の暮しならばまだしも、プールの更衣室においては細工のしようがない。それに対し男のちんこは、永遠にサイズの真実が定かにならない。
 そうか、だから女は得てしてリアリストだし、男はいつまでもモラトリアマーなのだな、と少し世界の仕組みが分かった気がした。俺はいつまであの日の逆ゆっこの出来事を引っ張り続けるのだろう。

2026年6月10日水曜日

爆売れ・充電・なに


 このところ水着がよく売れた。合計で俺の作った水着を40枚買ってくれた人がいる、ということを少し前に書いたが、あの人がそのあとさらに10枚買ってくれ、それとは別の人もまた、ブームなのか10枚のまとめ買いをしてくれたのだった。
 これまで水着がぽつぽつ売れるたびに、「いやー、在庫が少なくなっちゃったなー、張り切って作らなきゃいけないなー」とぼやき、ファルマンに「ぜんぜん減ってねえだろ、溢れてんだろ」とツッコまれるのが一連の流れだったのだが、20枚、10枚、10枚と来たので、さすがに在庫は目に見えて減った(まだたくさんあるけれど)。商品がYahoo!フリマへの出品数の上限に迫ったので仕方なく4枚でひとつのページにまとめることにした、ということを書いたのが5月9日なので、ちょうど1ヶ月前のことである。それから一気に波が来た。あるいはまとめ買いを促すような商法が奏功したということなのだろうか。
 ちなみに今回の波で、これはいついつまでも売れ残りそうだな、と思っていた、2024-2025ウインターコレクションの3枚、雪の結晶やノルディック柄の、思いっきり冬っぽいデザインのものも完売した。これにはびっくりした。作って販売しておいて何だが、買う人がいるんだな、と思った。それも6月に。ほとほと商売というのは、あきないものですね。おあとがヒュイゴー。

 先日ファルマンとピイガと買い物に行き、会計の際、ピイガのスマホに入れているアプリが必要で、というかそれが目的で連れてきたみたいなところがあったのだが、いざ使うときになって、「あ、充電がない」とピイガが言い出し、電源を入れると「0%」みたいな表示だけが出て、使えなかったのだった。思わず「役立たず!」と口に出して言ってしまった。娘に言ったのか、娘のスマホに言ったのか、どちらかと言えば、9:1で娘自身に向かって言ったのだと思う。だって俺、出発するだいぶ前から、その算段について本人に話していた。普通、充電を気にするだろう。どういう思考してんねん、と文句を言いたくもなる。
 そもそもスマホの充電が0になるという事態が、僕は信じられない。高校生でシティフォンを持って以来、使用している携帯電話およびスマホの充電を0にしたことは、たぶんこれまでいちどもない。車がガス欠で道路の真ん中で立ち往生、などという体験がないのと同じで、それは完全に空っぽにしてはいけないものだという認識がある。
 それに対し、ファルマンはよく充電が切れるし、よく「あと2%しかない」などとのたまったりする。ほぼ家から出ないし、リビングのソファに寝転がって延々と対話型生成AIと話し込んでいるのだから、そのとき充電ケーブルを繋ぎながらやればいいじゃないかと思うのだが、決してそうはせず、「あ、充電が切れた」などとホザく。そして慌ててケーブルを差す。
 そんな生きものはこの世でファルマンだけだと思っていたら、ピイガもそうであるということが今回判明したし、なんならポルガもまたそっち側だ。もしかするとスマホをこまめに充電しない性質は、顕性遺伝なのだろうか。家族がいつかガス欠で大変な目に遭わないか心配だ。

 『トモコレ』は、相変わらずやっているのだけど、熱は少し冷めてきて、「これっていつまでこんなことを延々と続けるの?」という疑問を抱いてしまった。敵を倒したり、問題を解決したりするわけではない、食べて、着替えて、交遊して、漫然と続く、暮し。
 それってこの世界じゃん、と気づいてしまった。
 中にいるのは各年齢の僕で、前回の記事で書いたが、42歳の僕もまた、僕が42歳を卒業した瞬間にこの中に入ることになるのだけど、じゃあ逆に今の俺ってなに? ゲームの中にいない、各年齢のパピローと友好を深めない、せっせと勤労して日々をこなす俺は、いったいなんなんだ? ゲームってなに? 人生ってなに? などと、分裂気味なことに苛まれ始めた。やる前から抱いていた印象で、また僕のコンセプトが特にそうなのかもしれないが、このゲームは、とても薄気味悪い趣味のものだと思う。精神においてとても薄情な部分がないと、このゲームを本心からは愉しめないのではないか。
 そんなことを思いながら、もうしばらくは続けようと思う。なに行為なんだろう。

2026年6月5日金曜日

島の名前は「MARIMOCCOTOPIA」


 あんなに「やる奴の気が知れない」とのたまっていた『トモコレ』を、始めてからは毎日きちんと欠かさずにやっている。パピローってそういう人。
 住人の数は現在16人。インターネットで日記を書きはじめた20歳を最年少としているので、2026年6月現在、作れるパピローの数は最大22人ということになる。もういっそぜんぶ出し切っちゃえよ、そのほうがいちいち新たな家の配置とか気にしないで済むだろ、という気もしないでもないが、なんとなく小出しにしている。
 新しい住人、すなわち新しい年齢のパピローを作成するとき、その当時の自分の境遇にきちんと思いを馳せ、丁寧に性格診断をする。この頃はいま思えばとても生真面目に生きていたな……、とか、このときはわりとイケイケだったよな……、などと情感に浸りつつ、項目を選ぶ。すると意外なくらい、パピローたちの性格の型は分かれる。性格は大きく4系に分類されるのだが、現在の16人の構成はというと、ナゴミ系4名、ノリ系4名、クール系3名、ドライ系5名と、ほぼ均一の配分になっている。子どもたちからは、「なぜひとりの人間なのにそんなに性格が変わるのか」と不思議がられるのだが、これが人生の蓄積というものだ。ティーンにはとても解らないだろう。
 人生の蓄積。
 当初のコンセプトとしては、俺ばっかりの世界で俺と俺と俺が仲良くしてハッピー、くらいの軽い気持ちだったのだが、住人を年齢別にしたことで、軽く人生の振り返りのようなことになり、望外の感慨深さのようなものを得てしまっている。最年少のパピロー(20)と最年長のパピロー(41)(42はまだ未作成なのである)が触れ合っている場面などを見ると、この間には20年余りの歳月があるのだなあ、僕はなんとか生き抜いてきたのだなあ、などと思う。『トモコレ』ってそういう感動をするためのゲームだったっけ。
 ちなみに現在、島で唯一の恋人関係にあるのは、これもかなりの年少と年長であるパピロー(22)とパピロー(40)で、先日はどちらかがプロポーズをしたいと相談してきたので、それはちょっと待て、と止めた。恋人関係までは覚悟ができていたが、結婚となるとさすがに理解が追いつかないというか、世界観がよく分からなくなってくるので、しばらくは控えてもらうつもりである。こんな世界にいまさら破綻もなにもないだろう、という気がしないでもないけれど。
 島の言葉や住人たちの口ぐせを設定するのもおもしろく、歴代のキーワードの選り抜きとしてはこれが最適だろうと、puropediaのcozy ripple名言・流行語大賞のページを印刷した。そして印刷したそれを片手にプレイに臨もうと思ったのだが、ちんこ関係の言葉があまりにも多いため娘の目に触れさせるわけにいかず、仕方なくそこから穏当な言葉を抜き出し、手書きのメモにして、それを傍らに置いてやっている。娘からは「なにそのメモ。なにそのプレイスタイル」と呆れられている。ファルマンからは、「普通はスマホとかで推しの顔を表示させながらMiiの似顔絵を作ったりするのにお前は自分の考えた言葉の手書きメモて」と丁寧にツッコまれた。速水真澄とチャン・ドンゴンとブラックジャックを作っている人になにか言われてもぜんぜん気にしない。
 島の言葉をいろいろ入力すると、たとえばこんなことになったりする。


 たしかになあ、と思う。たしかに密接に関係している。無自覚な欺瞞からの逃避とかって言う奴に友達がいるはずがない。本当にそうだと思う。
 でも前回『トモコレ』について触れた際にも書いたが、この世界だとこうなる。


 虚数友達。現実には存在しない理屈の友達。しかしそもそもがタイムパラドックスで同時に存在できるはずがないものが無数に存在している世界なので、そんなこともある。
 ちなみに初めて画像を載せた。switchの画像をパソコンに転送するのってどうやるのか、わざわざ検索して作業した。我ながらマメである。ブログの集積が『トモコレ』になり、そして『トモコレ』がまたブログになる。まるで自らの尾を喰らうウロボロスのようだと思う。
 パピローたちが着ているTシャツは、話しかけなくてもひと目で年齢が分かるようにするための工夫で、アイテム工房でわざわざ1枚1枚作っている。なんだかゲームの中でも現実とおんなじようなことをやっていることだ。
 ちなみに現在の集合写真がこちら。


 赤いスカーフと年齢Tシャツがこの島の制服。あと赤いビキニパンツがつい先日ショップに並んだので喜び勇んで大量購入し、いま順々に穿かせていっているところである。本当はビキニパンツを愛好するようになるのは30代半ば以降に限られるのだが、そこは創作的な部分として許容していただきたい(いったい誰に請うているのか)。
 それにしても多彩な顔触れである。愛しい。顔のパーツは基本的に一緒で、身長ももちろん一緒。本当は38歳以降くらいからは、それまでのふわふわした体から、それなりにがっしりとした体格になっているはずなのだが、残念ながらそういう項目はない。痩身か肥満かしかないので、そこは操作していない。
 今年の9月20日になったら、42歳であるこの僕も大いなる存在であるパピローの手によって掴まれ、こちらの世界に連れてこられるのだろう。いまから愉しみだ。