2026年6月13日土曜日

続・逆ゆっこ話


 逆ゆっこ現象について書いた際、男にとってのちんこと女の子にとってのおっぱいがそれぞれ対応するが、さすがのゆっこもあかりのヴァギナには手を這わせない、だからヴァギナはすごいのだ、ということを書いたが、それでは女の子にとってのヴァギナに対応する男の体の部位はどこなのか、ちんこが既に出てしまっているのにそんな部位は果たしてあるのか、と考えたとき、ひとつだけその存在に思い至った。
 それは勃起したちんこである。
 これはとても据わりのいい考えで、なんてったって勃起したちんことヴァギナというものは、男女のそれぞれの体の部位の立ち位置みたいな概念以前に、切っても切れない、とても密接な関係性で繋がっているものだからだ。すなわち、成り成りて成り余れるところと、成り成りて成りあわざるところ。対応という意味ではここまで深く対応する部位は他にない。
 おっぱいに対応するのがちんこで、ヴァギナに対応するのが勃起ちんこというのは、ちょっととんちのきいた考え方で、なにしろ男のそれは、厳密にはひとつのものでしかない。ただ状態が変化しているだけである。そんなの答えとしてはズルいのではないか、という意見もあるだろう。
 しかしここで思い出してほしいのは、やはり逆ゆっこのことである。逆ゆっこはプールの更衣室で、友達の脚の間にぶら下がるちんこを触った。でもそれは勃起していないから触ったのだし、そもそも逆あかりとしても、仮に勃起をしていたらさすがに更衣室でふざけてぶらぶらさせないだろう。ただのちんこは同性しかいない場では普通に開示されるが、勃起したちんこはそうではない。ここには明確な分断がある。つまり平常ちんこと勃起ちんこは、存在する世界線が異なっているため、別物として扱うことに十分な妥当性がある。
 そしてゆっこがあかりのヴァギナに手を這わせない、あかりのヴァギナは常にあかりの脚の間に存在するが、ゆっこにとってそれは存在しないも同然であるように、逆ゆっこにとって逆あかりの勃起ちんこは、認識の埒外にある。分かりやすく言えば、基本的に男は、他の男の勃起ちんこを目にしないということである。
 ただしここまで考えたとき、次に議論の争点になってくるのは、ゆっこがあかりのおっぱいを揉むとき、それはあかりのバストの発育を調べるという大義名分があるわけだが、そのサイズ計測的な概念というものは、男の場合、僕が「Seventeen Centimeterian」というTシャツを着ていることが象徴するように、勃起した状態のちんこのものに他ならないだろう、ということだ。これが、長年にわたり数学者たちを悩ませてきた、「あいつのちんこはデカい」「あいつのちんこは小さい」などと男たちは語り合うが、男たちが互いに見せ合うところの、平常時のちんこに関してそんなことを言っても意味がないのではないか問題である。これについては前々から疑問を抱いていた。男は、(基本的に)男の観察下でフル勃起をすることはできないので、勃起の、ひいては男性器のサイズというものは、結局のところ自己申告に頼るしかないのに、それでも男たちはそれの大小について熱心に語り合う。かくいう僕も、気が遠くなるくらい前からずっと語り続けている。ここに男の悲哀がある。女の子のおっぱいのサイズは、日常の暮しならばまだしも、プールの更衣室においては細工のしようがない。それに対し男のちんこは、永遠にサイズの真実が定かにならない。
 そうか、だから女は得てしてリアリストだし、男はいつまでもモラトリアム人間なのだな、と少し世界の仕組みが分かった気がした。俺はいつまであの日の逆ゆっこの出来事を引っ張り続けるのだろう。