前回の記事で触れたように、「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」は3つ存在したのである。
大神版、中埜版、をとめごら版である。
3ブログともすべて時間軸は同じで、宇佐木学園を舞台にした、6月1日から8月31日までの日々を描く。異なるのは視点である。
まず大神版は、学園唯一の男性教諭である大神を主人公に、彼と生徒である少女たちとの交歓が描かれる。大神先生が何歳で、専門の教科は何で、そしてなぜ彼だけが唯一の男性として学園に存在しているのか、という説明はない。それは特に定める必要はないものと判断したのだろう。きっぱりしている。その代わりにこういう設定がある。
『大神先生の陰嚢に触るとしあわせになれる』
宇佐木学園の少女たちの間では、何代にも渡ってそんな伝説が語り継がれてきたという。この設定があることで、大神と少女たちがそういう行為をすることに合理的な説明がつく。ただし少女たちが本当にしあわせになりたくて大神を求めるのか、あるいは大神を求める言い訳としてこのような伝説を捏造したのかは定かではない。たぶんどちらも真実なのだ。ちなみに大神はもちろん精力絶倫の成人男性なのだが、それでも全校で約1200人いる少女たちが無作為に殺到しては収拾がつかないため、少女たちの自治により協定が組まれ、朝に大神の部屋に入って朝一番の陰嚢の恩恵を得る生徒は、事前の予約申し込み制となっており、その競争率はかなり高いという。
次に中埜版は、1年まごころ組に在籍する中埜新が主人公なのだが、実はこの中埜新、歴とした男の子である。そんな新がなぜ女子校である宇佐木学園に通うことになったか。その理由は、「なぜか」である。これもまた、特に説明していない。多少、「名前が中性的であるのに加え、顔も美少女のようにかわいらしい」という取って付けたような言い訳もあったが、基本的にそんなことはどうでもいいと思っていたのだろう。同感である。エロ小説の主人公が女子校のたったひとりの男子生徒である理由は、彼がエロ小説の主人公だから、以外に存在しない。そして新が男の子であることは、学園および大神という大人側には絶対に知られてはならない秘匿事項なのだが、しかし少年のルームメイトである南野みちるはもちろんのこと、ほぼすべての生徒には知れ渡った事実である。それはなぜかと言えば、中埜新には「すぐに服を脱いで裸になってしまう」という悪癖があるからである。記事を読むと、たしかに新は本当によく裸になっている。そして全寮制女子校唯一の男子である13歳の少年が寮内で裸でいるとどういうことになるかと言えば、それはもう当然の帰結として、主に年上となる無数の少女たちから、だいぶ気さくにちんこをいじられることとなる。これは本当に当然の帰結である。ちなみにだが、僕がCFNMという性的嗜好の名称を知り、それをロゴにしてTシャツに仕立てることまでしたのは今年に入ってからのことだが、実はこの頃から明確にその嗜好は持っていたということになる。
これが大神版と中埜版ということになるが、なぜふたつが必要だったのか、ここまでの説明で理解していただけたと思う。触れるとご利益があるとさえ言われる神聖な巨根を誇る大神と、少女のような見た目でカジュアルにおちんちんを出してしまう新、僕のちんこは、そのどちらのちんこでもある。まったくベクトルが異なるそのふたつの願望は、ひとりの主人公では決して叶わない。だから視点を分けなければならなかった。
ちなみにだが、作中にいちどだけ、大神と新が直接絡むシーンがある。中埜版7月18日の身体測定の場面である。宇佐木学園のすべての生徒の胸囲を計測するのは大神の担当であるため(熟練のテクニックによってものすごいスピードで少女たちを捌いてゆくのだ)、生徒のひとりである新もまた、どうしたって大神による計測から逃れることはできない。
「次」
気が付くと目の前には誰もいなかった。大神先生がつまらなそうな顔でこちらを見下ろしている。
新はおずおずと大神先生のほうに歩み寄った。
その瞬間、前に並んでいた少女たちがされていたように、左肩を抱き止められ、右手が背中に回される。背中を突かれる感覚はほとんどなく、スワッとした感覚がしたかと思うと、既に新の胸からはブラジャーが姿を消していた。遠目に見ていたときから感心していたが、いざ実体験してみて改めてすごいと思った。なんというテクニックだろうか。それからメジャーが胸に這わされる。メジャーは冷たいのかと思いきや、朝からずっと少女の胸に巻きつかれているためだろう、むしろ温かかった。
「70.2」
大神先生が無感動な口調で計測値を読み上げた。
ふたりの邂逅が描かれたのはこれきりなのだが、このあとさらに物語が紡がれていたら、ふたりはどういう関係性になったろう。たぶんどこかで大神は新が男の子だということを知るだろう。そのとき大神はどうするか。新、おまえだったのか、いつもくりとりすが異様に大きかったのは。みなさんもこのときの大神兵十の気持ちになって、物語の続きを考えてみましょう。
さて大神版中埜版と来て、最後はをとめごら版である。これは特定の主人公を置かず、宇佐木学園の少女たちが代わる代わるに主役となる趣向のバージョンである。実を言うとこれは最初はなかった。大神版と中埜版をしばらくやったところで、女の子から見た宇佐木学園の風景も描かれるべきだな、と思い約2ヶ月遅れで開設された。
しかしあとから理屈によって創設されただけあって、衝動的なエネルギーに欠ける感は否めない。ふたりの男の視点からでは描けない宇佐木学園を補完し、物語としての厚みを増やすという意義は解るが、下半身に直接作用しないのである。下半身に直接作用しないのならば、大神の人物詳細がないように、新が女子校に通うことになった説明がないように、それは不要なものだったということになる。エロ小説というものは、一言一句、すべてがひたすらにちんこを高めることにのみ捧げられるべきだからだ。
しかし当時たしかに存在したものを、いまさらなかったことにはできない。これはこれで、おもひでぶぉろろぉぉんで振り返られる、僕のブログの記録である。をとめごら版も含めた3つのブログのそれぞれの性質を解説したところで、いよいよ次回からは記事内で綴られた宇佐木学園の風景について語っていきたい。