2026年3月28日土曜日

生きているからラッキーだ


 前回の記事の、続きのような話を書く。
 「道具で争うのではなく選手個人の能力で争う」がゆえに、「水着には基本的に既製品しかない」のだとしたら、僕がやっている行為のような特殊なケースを除いて、「水着とはこだわる対象であるべきではない」ということになる。もちろん好きなメーカーとか、ラッキーカラーとか、そういう次元の好みはあるにせよ、それ以上の理想は(本来)追求しようがないのである。やり投げの北口榛花が語っていたことだが、やり投げの槍もまた、その選手専用型という概念はないようで(あまり細工したものはルール違反になるのかもしれない)、それぞれの私物ではあるものの、大きい大会であっても、わりと選手間で貸し借りをしたりするのだという。これも聞いたときはだいぶ意外だった。特注品がないという点で、水着もそれと同じに捉えることが可能で、既製品なのならば、サイズさえ同じであればだけど、やろうと思えば選手間での貸し借りだってできる。心理的にあまり気が進まないかもしれないが、たとえば学生の大会などで、部員の誰かが水着を忘れてきたら、レースが被ってない他の部員の水着を借りる、なんてことは、普通にあり得そうだと思う。
 そのことを突き詰めて考えていくと、水着の本質、イデアが見えてくるような気がする。
 すなわち、水着とはただの「性器隠し」に他ならない、それ以上でもそれ以下でもない、ということだ。「選手個人の能力で争う」の究極の姿は、まさに古代オリンピックのそれで、選手はみんな全裸で競うべきだということになる。しかしそれではさすがに問題があるので、世界水泳連盟としては仕方なく、「性器を隠す布片だけは身に着けてもいい」と、決して本意ではなく、忸怩たる気持ちで許可を出している。水着って実はそんなものなのだ。
 お前が、まさかお前が言うのか、という話だが、だから水着に執着するのなんてナンセンスの極みで、本当はなんだっていいのである。性器さえ隠せていれば。そして、性器を隠す最低限のもの、という言葉で思い出されるものと言えば、断然これである。


葉っぱ一枚あればいい。NOBITATTLE.
 

 「ハワイアン」カテゴリの生地は、これまでぜんぜん琴線に引っ掛かるものがなく、スルーしていたのだが、性器を隠す最低限のもの=葉っぱという発想から、葉っぱ柄の水着を作ることに対する大きな意義を見出したので、このたび注文して作った。
 そしてアンテナを張っていたということなのだろうが、ちょうどこの生地を発注して届くか届かないかくらいの時期に図書館に行ったら、その名も「アロイド」(笠倉出版社)という本を見かけ、アロイドとはこの水着で使用した生地に描かれているような、巨大な葉を持つサトイモ科植物の総称らしいのだが、それを写真とともにたくさん紹介している内容だったので、これはいいと思って借りた。それによると、葉の形態の多様さから観葉植物として人気が高いアロイド植物の、これはモンステラ属、その代表格であるモンステラ・デリシオーサを描いたものであるようだ。ちなみに「モンステラ」はラテン語の怪物(monster)から来ているのだそうで、だとすればこれで性器を隠すということは、怪物を隠す葉っぱもまた怪物であるという、とても気の利いたシャレになっているのだと言える。
 もっとも性器を隠す葉っぱの代表格と言えば、世界的にはやはりどうしたってイチジクの葉ということになる。言わずもがな、これは聖書に由来するわけだが、イチジクの葉のデザインのものはショップになかったし、キャッチコピーにも拝借した南原清隆率いる葉っぱ隊は、じゃあどんな葉っぱを使用していたのかと確認したところ、もちろん本物ではなく、スタッフが作ったそれっぽいものではあるのだが、やっぱりそれはモンステラのようで、本に載っているものでいちばん似ていたのは、モンステラ・デリシオーサ・ボルシギアナという品種だった(ただしもしかしたらラフィドフォラ属のラフィドフォラ・テトラスペルマの可能性もある。モンステラに似ていて、ヒメモンステラの別名もあるという)。僕はキリスト教徒ではなく、どちらかと言えば葉っぱ隊教徒なので、そっち側に近いほうがむしろ好都合である。
 さらにこれは細かい話になるのだが、なぜ生地のイラストがモンステラ・デリシオーサで、葉っぱ隊のそれがモンステラ・デリシオーサ・ボルシギアナだと思ったかと言えば、イラストのそれには穿孔が多くあり、葉っぱ隊のそれには切れ込みしか見られなかったからで、知識が付け焼刃なので間違っているかもしれないが、両者にはそういう違いがあるように思え、そう判断した。
 モンステラの葉に見られる穿孔は、あれは虫食い穴では決してなく(そうだとばかり思っていた)、『樹冠下の弱い日光を効率よく活用するために、光を通しやすくしていると考えられ、さらに風通しをよくし、風圧や雨滴によるダメージを軽減する』(「アロイド」より引用)ためだとされているが、葉っぱ隊の用途から考えたら、穿孔が多くあってはまずいということになる。しかしあってはまずいということは、そこにはスリリングさがあり、オートマチックにそれはエロスへと直結するのではあるまいか。すなわち、大きい葉っぱがあったので股間を隠すのにちょうどいいと思って局部に当てたところ、概ね蔽うことができたが、要所要所に穴があるせいでそこだけは覗けてしまう。穴の大きさが微妙なので、大事な部分が見えているような、見えていないような……、というそういうエロス。宮沢りえの写真集「Santa Fe」の表紙も想起するし、あるいはかつて流行ったグラビアが裸に見える水玉コラのことも思い出す。モンステラ・デリシオーサは、天然でそれを実現する、まさにグラビア界のモンスター的大発見やもしれない。
 それといろいろ思い出したついでに、無人島で葉っぱで局部を隠すエロ小説あったよな……、というのも思い出して、探ったところ、美少女文庫の「お嬢様と無人島!? 葉っぱ水着パラダイス」(七海ユウリ著)というものだった。たぶん読んだとは思うが、手元にはない。ちなみに表紙のお嬢様が身に着けている葉っぱビキニは、いちじくでもなければモンステラでもなさそうだった。刊行は2009年。この時点でモンステラの穿孔のエロスが描かれていたら、美少女文庫の未来は変わっていたかもしれない。機会があったら手に入れて改めて読んでみようと思う。
 あと、なんか自分でも思っていた以上に長い話になってきたが、性器を隠すだけの葉っぱとしての水着、みたいなコンセプトで画像のものを作り、モスグリーンで普通にかっこいい感じなので、それはいいのだが、でもこれは着想の起点がそうだっただけで、実はぜんぜん性器を隠すだけの葉っぱの正しい状態じゃないよな、と思う。なにしろ全体がこの柄なのだから。だから本当に思い描いているものを作ろうと思ったら、アンサーソングの部分にだけこの葉っぱ柄の生地を用い、残りの腿から尻にかけてのぐるりの部分は、肌色の生地で作るべきだと思う。それを実際に作ったら、いよいよとんでもないことになるんじゃないかと思う。作ろうと思えば作れる。さすがに穿いて人前に出ることはできないだろうが、作れるのならば、人類のまだ掘り進めていない坑道の、僕はその先を目指すべきではないのか、とも思う。これは大袈裟に言えば、人類の進歩の拡張の話だ。

2026年3月25日水曜日

持続的な催淫効果


 ふたつ前の記事、「ブランド理念」で触れた本に書いてあったのだけど、水着業界にはオーダーメイドというものが基本的に存在しないのだという。陸上のスパイクとかのイメージで、一流の選手というのは、メーカーに面倒を見てもらって、本人の体型に極限まで合わせた水着だとか、そういう金のかかったものを使っているものだと思っていた。そうではないのだ。それというのも、speedo社の高速水着の一件から水泳の国際連盟は反省をし、「道具で争うのではなく選手個人の能力で争う」という思想の下、ルールを厳格化したのだという。
 そのことを知ると、「オリジナルの水着を作って穿いて泳いでいる」という自分の行為が、ますます特別な意味を帯びてくるような気がする。この世に、「自分用に誂えた水着」というものは、どうやら思っていた以上に少ないらしい。一流の選手でさえ、水着は既製品を使うのだ。もしかすると僕は、これまで人類がほとんど掘り進めていない坑道を突き進んでいるのかもしれない。
 それにしても「道具で争うのではなく選手個人の能力で争う」という思想はいいな。しかしいいなと思うと同時に、みんな一緒の水着で包む肉体には、それぞれの異なった出っ張った部分があるわけで、それも含めて能力と言ってしまえばそれまでだが、男ならぱぱぼとるの大きさ、女なら乳房の大きさが、ハンデとなる場合だってあるわけで、真の意味での厳密さってなんだろう、ということも思う。ぱぱぼとるが大きい人間は、それだけ水の抵抗が大きくなるのだから、少しタイムを優遇してくれないとフェアじゃない。フィニッシュタイムに巨根係数を掛けてほしい。
 ……ちょ待てよ! あいつにだけ巨根係数が掛けられて、俺に巨根係数が掛からないのはおかしいだろ、もう1回採寸してくれよ。絶対俺のほうが巨根係数が大きくなるはずだろ。……いや、ちげえよ、今はプールで泳いだあとだから! これはちげえから! マジで水で冷やされる前はヤバかったから。もはや水の抵抗とかじゃねえから。俺の股間が水門みたいになってたから。流れ、堰き止めてたから。それなのに泳いだんだし。マジ半端ねえから。もはや係数とかじゃねえし。これ抱えて泳いだってだけで金メダル級だから。なんも言えねえ……。チョー気持ちいい……。北島さんを手ぶらで帰すわけにはいかない……。あー、もしかすると僕は、水に怒張を愛撫されて、泳ぎながら果てたのかもしれませんね。だから今こんなに小さくなって、そしてとても穏やかで清々しい気分なのかもしれません。だとしたらもうそれ以上に望むことはありません。もとより、僕は規定違反のオリジナル水着を穿いているので、はなから失格ですしね。え、この巨根専用水着ですか? NOBITATTLE製です。違います、speedo社じゃありません。speedo社製ならぬ、スピード射精です。
 このダジャレ、もう20年くらい前の、speedo水着を着た女の子のグラビアの煽り文句で目にして以来、ずっと大切にしている。我ながら物持ちがいいな。グラビアの話が出たついでに、女の子の乳房の場合の係数については、そこは巨乳係数ならぬボイン係数でお願いしたいと思う。時は令和。もはやなかなか聞かないボインを、あえて使ってみようじゃないか。勇敢だな。

2026年3月22日日曜日

春とスケート


 春分の日の3連休なのだった。今年は子どもたちの春休みが長く、わりと持て余し気味のようなので、ここらでひとつ大型レジャーでも、とも思ったのだが、そう思い立ったのが2日前くらいのことだったので、ぜんぜん態勢が整わず、結果的にどうなったかと言えば、アイススケートということになった。場所はもちろん湖遊館である。なにしろ山陰でスケートリンクはここしかない(ちなみに余談だが、あと1週間ほどで松屋が出雲に山陰初出店するので、非常に愉しみにしている)。スケートは冬のはじめ頃からピイガに「行きたい」とせがまれていたが、いちおう受験生がいたので行くわけにもいかなかった。そのため、このたびようやく思う存分に滑りに来ることができた、というわけなのだった。過去の日記を確認したところ、前に来たのは2022年の年の瀬だった。なので3年3ヶ月ぶりくらい。それがスケートというレジャーに一家で繰り出す頻度として、順当なのかどうなのかはよく分からない。その際にはこのような記述をしている。

 靴を履いて誰よりも先にリンクに足を踏み入れたのはピイガで、その場で見事に転倒した。世の中、テレビで観るアイススケートは、フィギュアにせよスピード競技にせよ、とてもうまく滑れる人ばかりが映し出されるので、滑るのが難しいというイメージがピイガの中にまるでなかったらしかった。そして最初の派手な転倒によって自らの誤解を悟る、ということもなく、ピイガはいつまでも自信満々に進み続け、そして転び続けた。自信がすごすぎて、現実でぜんぜんうまく滑れていないことなど、ピイガの中では些末事のようだった。すごい現象だな。一方でポルガは慎重派で、壁の手すりに掴まりながら、そろりそろりと足を進めていた。やがてだんだんとコツが分かってきたのか、壁から手を離す場面も増えたのだが、しかしそのコツというのはあくまでポルガの中のコツであって、その滑り方は、右足は固定したまま左足だけを動かすという異様なもので、前傾することなくすらりと伸ばされた上半身は終始不動で、トレーニング器具のスカイウォークのようだった。自分以外の人間のやっている様を完全に見ずに、独力で独自の方法を編み出し飄飄としている感じが、実にポルガらしいと思った。斯様にタイプは違うが、しかしふたりに共通しているのは、絶対に自分が正しいと確信していることだ。こいつらの自己肯定感の鋼っぷりは、一体どうしたことなのかと、今日のアイススケートに取り組むさまを見て、改めて不思議に思った。
(「おこめとおふろ」2022年12月30日)

 三つ子の魂のやつで、今回のアプローチも、両者ほぼこのときと同様だった。ピイガは来る前から、「ピイガは絶対にスイスイ滑れる。オリンピック観たから。だから絶対に滑れる」と言い張っていたが、リンクに立った途端、転倒こそしなかったにせよ、思い描いていたスムーズな滑走というわけにはいかない現実に、「あぁ?」と憤っていた。氷にすごんでどうなるというのか。ピイガは基本的にムーブがチンピラっぽい。そしてポルガはやはり手すりにすがりながら、黙々と足を動かしていた。この歳になってくると、家族とのレジャーなんか愉しんでくれているんだろうか、嫌々付き合っているんじゃないかという不安がこちらにはあって、まるではしゃぐ感じのないそのさまに、思わず「大丈夫? 愉しんでる?」と問いかけたところ、やはり難しい顔で、へっぴり腰になりながら、「めっちゃ愉しい」という答えが返ってきたので、ああこの子はこういう子だったな、と再認識した。
 休憩を挟みつつ、2時間弱ほど場内にいただろうか。だいぶ滑った。子どもたちも、滑りはじめよりはそれなりに上達したが、4人の中で誰がいちばんうまく滑れるかと言えば、それはどうしたって僕なのだった。前回も思ったが、僕はわりと上手に滑る。スケートは、ただスイスイ滑る分には、そこまで筋力を使わないものだ。じゃあ大事なのはなにかと言えば、それはやっぱり運動神経、すなわちセンスということになるのだと思うが、そういう点で僕という人間はやっぱりだいぶ秀でているんだろうな、と思った。
 3連休のトピックスと言えばだいたいそんなもので、買い物だったりプールだったりでちょこちょこ出た以外は、ずっと部屋にいて、水着を作ったり、本を読んだり、筋トレをしたりしていた。ちなみに、3連休ということになると絶対にキーワードとして出さなければならないという縛りでもあるかのようなおろち湯ったり館は、今春も20日から2階の露天が開放されたということで、いつもよりだいぶ行く機運が高まったが、ChatGPTに例の岩と木について訊ねたところ、男湯は木風呂(だろうと思われる)とのことだったので、うーん、と思案した末にやめた。春のどこかのタイミングで行けたらいいなあとは考えている。しかしそれはそれとして、総評として決して悪くない3連休だった。そして明日からは平日かー、と思っているのは、しかしわが家で僕だけだという事実。子どもたちふたりとも、長めの春休みという事実。じゃあ3連休におけるレジャーに対する気概とかも、ぜんぜん違ってくるんじゃん、とだいぶ終盤で気付いた。ずっちーな。

2026年3月21日土曜日

ブランド理念


 この2ヶ月くらい、Yahoo!フリマでの水着販売がわりと活況だった。こんなに売れちゃったら在庫が寂しくなっちゃうな、と一瞬だけ思ったが、やっぱりそうは言っても生産のほうがよほど上回るのだった。購買者、もっとがんばれ!
 生産と言えば、これはとても個人的な話になるのだけど(いったいいつ僕がここで個人的じゃない話をしたというのか)、水着用の生地を主に買っているお店というのがあって、これまでそこのアウトレット生地というのを使用していたのだが、つい先日それが販売終了になってしまい、アウトレット品ではない通常の2way生地だと、これまでに較べてそこそこ値段が高くなるので、嫌だなあ、嫌だけど仕方ないなあと思いながら、先ごろ初めてそちらを発注したのだが、届いたものは、プラシーボかもしれないが、思っていたよりもアウトレットよりもだいぶ質感がいいように感じられたので、売れはじめたNOBITATTLEが今よりも一段上に行くためには、ちょうどよかったのかもしれないな、などと思った。
 ところで数日前の出来事なのだが、フリマのほうに一通のメッセージが来た。その内容はと言うと、「素敵な商品ですね」とまず褒めてくれたあと、「ところでフロントがフラットになっている商品の開発予定はありますか?」という問い合わせで、これには虚を突かれた。
 僕自身が地元のプールで穿いているそれを出品するにあたってのリスク回避策として、販売ページでそこまで股間の立体造形については高らかに謳っていないけれど、実際のところの製作コンセプトは、はっきり言ってその部分に意識が集中しており、言わば製品のアイデンティティに他ならない。なんてったってブランド名はNOBITATTLEである。息子にのびのび育ってほしいという願いを込め、名前の通りに育ち、そして担任からは頻繁に「立っとれ!」と叱られる、そんなぱぱぽとるのための水着。それがNOBITATTLEである。
 であるからして、作ろうと思えば簡単なことではあるだろうが、「現在のところ考えておりません。ご希望に沿えず申し訳ありません」と返事をし、今回のやりとりは終わった。
 やりとりを終えたあと、虚を突かれた部分から、こまごまとした思いが湧き上がってきた。水着を作りはじめて3年か4年くらいになるのだが(正確なタイミングを探ったが、はっきりしなかった。日々せっせと日記を書いているのに、それでもあとから振り返ったとき、知りたいことがきちんと記載されていなかったりする。きりがないのだと思う)、NOBITATTLEというブランド名はあとから設えた(しかしとてつもなく秀逸な)ネーミングであるにせよ、男性器のための膨らみを持たせるという理念は前提としてまずあり、それを成立させるためにそれ以外の部分を考えていると言ってもいいわけで、そのためフロントをフラットにするという、発想そのものが、これまで本当に微塵もなかった。しかし男性用の水着、特にハーフパンツ型ではない、ボックス型やスパッツ型というのは、よほどこだわりを持って選ぼうとしなければ、手近な選択肢はほぼ黒か紺の二択になってしまうわけで、もしかすると、「さまざまな柄の生地で作られた男性用水着」という、その部分だけで価値を見出す層もいるのかもしれない、そしてその人にとっては、股間の膨らみというのは不必要な、むしろ志向的にはあると厄介なもの、というパターンもたしかにあるのかもしれない、今回の問い合わせはつまりそういうことだったのかもしれない、と思った。男だったらいつだって、どちらかと言えばそこは強調したいと考えるものだと、これまで信じて疑わなかったが、その確信が少し揺らいだ。股間がフラットな水着の需要、もしかしてあるのか? 作ったら売れたりするのか? 
 しかしその一方で、やはりこんなことも思った。もうずっと前、それこそおもひでぶぉろろぉぉんで読んでいるような時代の話だが、練馬で友達夫婦を家に招くにあたり、たこ焼きを企画して、そのために前日にアメ横へ行って蛸を買おうとしたのだが、店に並んでいるのは1匹丸ごとの蛸ばかりで、たこ焼き用に脚だけが欲しかった僕は、威勢のいい店主に、脚だけのものは売っていないのかと訊ねたのだが、返ってきた答えは、「そういうのはスーパーに行きな!」という苛烈なもので、今よりもっと繊細だった20代の僕の心は大きく傷ついたのだった。今回の問いかけでそのエピソードを想起したということは、やはり心のどこかで、「そういうのはアリーナにでも行きな!」という、あの店主と同じ微かな苛立ち、略して微苛(びか)があったということだろう。思わずこれまでなかった熟語を作ってしまったが、わりと汎用性が高い気がするので、これからみんなもぜひ使ったらいいと思う。
 アリーナと言えば、先日ちょうどアリーナの水着の開発の人が水着について説明する記述を読み(原功著「子どもが水泳を始めたら読む本」(ベースボール・マガジン社))、いろいろと興味深かったのだが、その中に、水着に使われるポリウレタン繊維はプールの塩素と相性が悪い、という話があって、特に女性の場合、胸や尻の部分は生地が伸ばされやすく、水が通りやすくなるので、特にダメージが強く、生地が薄くなり、場合によっては透けるリスクが高まるのだそうで、これを読んで、ふたりの娘の父親でもある僕はどういうことを思ったかと言えば、透けてほしい部分がちゃんと透けてくれる稀有なパターンだなあ、ありがたいなあ、プールはやっぱり尊いなあ、と思ったのと同時に、女子がそんなリスクを負って泳いでいるんだから、男子もまたその心意気に答えなければならない、女の子のおっぱいの膨らみ、そしてそのせいで生地が薄くなってしまうという、もはやハレンチ学園的な恩恵に、男はいったいどんなアンサーソングを返せばいいのか。
 ということを考えると、やっぱりNOBITATTLEは、めいっぱいにNOBITATTLEでないとダメなんだ、男子だけそこをフラットにしようだなんて虫のいい、卑怯な話があるか、と改めて思う。確固たる理念である。NOBITATTLEのあそこに収まっているのは、ぱぱぼとるであると同時に、確固たる理念なのだと気づいた。

2026年3月18日水曜日

ピイガの小学校卒業


 ピイガが小学校を卒業した。(ほぼちょうど)3歳差なので、小中高の節目が同時なのだ。
 小学校の卒業式はバリバリの平日で、もちろん僕は不参加である。ファルマン曰く「お父さんもたくさん来ていた」とのことで、ふうん、と思った。ファルマンのこの発言に、(なのにあなたはぜんぜん休みを取って来ようとしなかったね)という含意があるのかどうかは知らない。
 たくさんの子育て熱心なインスタパパたちと違って卒業式には参加しなかったが、式で娘が着る服は作った。こちらである。


 セレモニーワンピースとボレロ。あとリボンも手作りである。
 ワンピースはピイガの好きな緑色で、ボレロはそれに合わせた色を選んだ。素材はどちらもツイルで、なかなか上品な仕上がりになったんじゃないかと思う。売り場で見たら、往時のAKB48みたいなやつが、ずいぶんな値段で売られていたので、作ってよかったなあと思った。リボンは、ネットで買ったのだけど、色や太さなど、だいぶ模索し、これひとつを作るために、合計で30m分くらい買うはめになった。結果、これにたどり着いたのはよかったが、余った29m30cmくらいのリボンは、果たしてどうすればいいだろう。
 どうすればいいかという意味では、小学校の卒業式用に作ったこの衣装、本当に小学校の卒業式以外で着る場面がなさそうで、これ自体、今後いったいどう扱えばいいのかと思う。もう決して着ることがないのに、まさか棄てられもしない。いったいどうしたものか。
 ちなみにだが、ボレロに使ったこの生地は、未活用食材を使用して布を染めるという、環境に優しい、サステナブルな謳い文句のものだったりする。もちろん意識が高い僕のことなので、その点に魅力を感じて選んだのだが、そんなサステナブルな生地を使って作ったものを、一生のうちにたった1日しか着ないというのも、なんだか落語のような話だな、と思う。いったいエコとはなんなのか。
 なにはともあれ、ピイガも小学校を卒業し、春からはJCだ。なんと小さいJCなのか。友達の女の子数人とともに撮った写真を見せてもらったが、うちの子だけ天才で、飛び級で小学校を卒業したのかと思った。なので、まだあまり実感が湧かない。狭義での子ども、すなわち児童がわが家からはいなくなったのだと、まだぜんぜん信じていない。

2026年3月16日月曜日

高校受験というもの


 ポルガが志望校に無事に合格した。
 自分がそういうことをしなかったし、そもそも年代も土地も違うので、あまりにも高校受験というものの勝手が分らず、合否について、中学校の教師も、塾の講師も、「成績的にまず間違いない」とは言うらしいのだが、とは言え試験なのだから足元を掬われることだってあり得るだろ、と発表までは内心ハラハラしていた。どうやら田舎の、公立を主軸にした高校受験というものは、なるべく落ちる子が出ないよう、そもそもあらかじめ受験する先が振り分けられるようで、当日の試験というのももちろん重要ではあるのだろうが、そこに至るまでの中学校での評価こそが大事であるらしい。いわゆる内申点というもので、これまでこの言葉をとても忌み嫌っていたし、今でももちろん好もしくは思わないが、一か八かの一発勝負でだけ選抜し、その結果として志望校に落ちてしまう子を、なるべく出さないようにするシステムという意味では、なるほど理に適った部分も大きいのだな、と親の立場になってようやく理解した。
 あとこれも親の、特に女の子の親の立場になって初めて実感を伴って思ったことだが、数年前に、どこかの医学部で男子の成績に下駄を履かせていた、というニュースがあっただろう。純粋に成績で合格者を選んでいたら女子が多くなりすぎてしまい問題があるから、慣例としてずっとやっていた、という。ポルガがこのたび通うことになった学校は、わりと勉強ができるタイプの子が行く学校なのだけど、もしかしてここにも男子への下駄が存在するんじゃないの、ということを思った。だって中学生なんて、絶対に女子のほうが聡明で、意識が高くて、勉強をたくさんして、成績がいいに決まっている。だから普通に考えたら、偏差値の高い公立高校は女子の比率が高くないと嘘だ。そこのところはいったいどうなっているのか、と卒業生でもあるファルマンに訊ねたところ、「そうだよ」とあっけらかんと答えられた。ポルガの通う学校は、女子のほうがだいぶ多いそうだ。「でも」とファルマンは続け、
「私のときは男女がほぼ半々だったけどね」
 という、ちょっとブラックなオチをつけた。件の医学部のニュースも影響しているのか知らないが、いつのタイミングからか、しれっと軌道修正したらしい。かつてはやっていたのだ。それで誰も文句を言わなかったのだ。昔というのは本当にざっくばらんだな。現在に較べ、人権というものがだいぶ大雑把に扱われていたな、としみじみと思う。
 ちなみにだが、中学時代にまったく勉強をしなかった僕は、地元に行ける高校がなく、東京の私立高校に入学した。地元に行ける高校がなかった僕が、なぜか推薦で入学できたその高校は、なるほど男子校であり、理屈に合っているようにも思う。まじめに勉強をせず、しかも反抗的な生活態度をとっていたら、男子校に行くはめになるんだよ。それが嫌だったら死に物狂いで勉強するしかないんだよ。そして死に物狂いで勉強をして、男子なのに偏差値の高い公立高校に行けたら、そこには夢のような、男女比3:7くらいの世界が広がっているんだよ。さ、3:7! 3:7ってことは、必然的に3Pということになってくるし、鶴亀算的には、4Pの可能性さえ出てくる。マジかよ、俺も日能研で鶴亀算とかやってたら、高校時代4Pだったのかもしれないのかよ。先に言えよ。42歳になってからじゃ遅えよ。
 話が脇に逸れた。なんの話だったか。ああ、愛娘が志望校に合格した話だった。なにはともあれ、ひと息ついた。部活動から受験まで、中学時代はなかなか激しかった。卒業式を終え、合格発表も済み、ポルガは今、とても暇している。いいんじゃないかと思う。

2026年3月13日金曜日

海綿体的な話


 晩ごはんに八宝菜を起案する。これまでわが家の献立には登場してこなかったメニューだが、あんかけの素を店で見かけ、なんとなく気が向いたので買ってみたのである。というわけで材料を揃え、ファルマンにリクエストした。
 しかしその日は早く退社できたので、材料を炒め始める前、下ごしらえが済んだ段階で帰宅することができた。白菜、豚肉、にんじん、海老、たけのこと、いろいろな食材がキッチンに並ぶ中、中くらいのボウルにこんもりと盛られた黒い物体があった。よく見れば、それはきくらげであった。きくらげもまた、これまで八宝菜を作ってこなかったわが家には馴染みのないものであったが、せっかくだからということで乾燥のものを買ったのである(そのわりにうずらの玉子を思いきり忘れた)。乾燥した状態のきくらげは、それはもう頼りにならない感じの、ちりちりの黒い紐のようなもので、それをファルマンは、一袋丸ごと水で戻したのである。その結果、乾燥きくらげはぐんぐん水を吸い、中くらいのボウル一杯まで膨れ上がったという次第であった。黒いぶよぶよのきくらげが積み重なる姿は、なかなかグロテスクで、思わず爆笑した。
 ファルマンは少し恥ずかしそうに、
「だ、だってこんなにおっきくなるなんて分からなかったんだもん」
 と言った。
 妻の、想像よりも大きく膨らんだことに戸惑う姿を見たのはこれが2度目だな、と思った。
 そんなオチの話。

2026年3月11日水曜日

フーテン


 月曜日は体がしんどかった。週末、早起きしなくていい喜びからはめを外し、ダラダラと酒を飲んで、深夜に眠り、浅く、そこまで長くもない(なんだかんだで目が覚めてしまう)質の悪い睡眠をして、すっかりリズムを崩し、そして翌週を迎えるという失敗を、僕は一体いつまで続けるのだろう。なぜ反省しないのか、われながら不可思議だ。
 月曜日、たまらず休肝し、しかもいつもより早く寝たりすると、火曜日はとても楽になって、ああ夜更かしなんてダメだ、酒なんてダメだ、もうこりごりだ、と思うのだけど、週末にはやっぱり解放感からまったく同じことをやってしまう。阿呆だと思う。
 しかし理屈では解っていても、週末なのに酒をがっつり飲まず、しかも規則正しい時間に寝るだなんて、そんなつまらないことをしていいのか、罰が当たらないのか、という謎の使命感が沸々と湧き上がってきて、結局やってしまう。
「最近いっつもこの繰り返しだよ」
 とファルマンに向かってぼやいたら、
「最近じゃないよ。あなた昔からずっとそうだよ」
 とのことで、ぎゃふん、とも思ったし、愛しい、とも思った。同じ失敗をずっと繰り返してしまう。そんなのもう、寅さんじゃん。国民的愛されキャラじゃん。ちんこの目方で男が売れるならなあ。こんな苦労もかけまいに。かけまいになあ。

2026年3月10日火曜日

42歳男子


 実家から現在まで、女とばかり、もとい女としか暮していないのに、なぜか異様なほど女に幻想を抱き続けているし、女性性への理解度が低い。われながらこれはすごいと思う。とにかく家族と女性というものを、完全に別物として捉えているのだろう。それは自然なことだとも思うし、そこまで完全に分離して初心なままでいられるものなのか、とも思う。
 月経というものがあるじゃないか。実家にいるとき、その気配を感じたことは一切なかった。まだオープンな性教育という時代でもなかったので、完全に世界の埒外であった。ファルマンと暮しはじめてからはそういうわけにもいかなくなり、女には毎月、つらい数日間があるのだということをぼんやりと理解するようになった。そして女が月経の期間であるということを知った場合、必ず「女子って大変なのな」と口にするようになった。どうやら女子の生態に理解のある、思いやりのあるイケてる男子は、そのときそういうことを言うらしい、ということをどこかで見知り、本当は理解していないくせに、言葉だけ真似するようになったのである。でもしばらくすると面倒になって、「じょしたいなのな」と略すようになって、ファルマンにムッとされるようになった。配慮の呼びかけを面倒臭がって略したらダメなのだ。
 そんなわけで、ぜんぜん本質的には月経のことを理解していなかった僕なのだが、先日ファルマンから、「想像してごらんなさい。月に一回、性器から血が出るんだよ」と改めて伝えられ、それを自分のぱぱぼとるに置き換えて想像したら、すさまじい絶望の淵に立たされ、「……今生が終わった」という気持ちになったので、そこでようやく僕は女性の大変さが真に理解できたように思う。女子って毎月そんなことをしていたのか。めっちゃつらいじゃん。女子って大変なのな。

2026年3月9日月曜日

春の夜の夢ばかりなる金玉にかひなく立たむ名こそ惜しけれ 2026春金玉5首


 手取りより金玉体積増すほうがはるかに喜ぶ国民感情

 金玉が杉咲花と語り合う冬のなんかね春のなんかさ

 龍一の金玉もまた名コンビ璃来ももちろん理解している

 上野からキンキンタマタマいなくなり少し寂しい恩賜公園

 陰茎に憧れるのはやめましょうワールドゴールデンボールクラシック2026

2026年3月8日日曜日

「スク水メイドがご奉仕します!」を読んで


 11冊目。2010年11月刊行。通し番号は171。
 あらすじはこちら。

 学校では憧れの先輩たちは……家では、なんとボクのメイドさん!? プールでお風呂で、ダイタンなスク水姿で迫られちゃう夢の生活。幼なじみのツンデレメイドと世間知らずのお嬢さまメイドの二人による全身を使ったご奉仕に、少年の理性は沸騰寸前!!

 どういう事情なのかは分からないが、前作に引き続き、「学校では秘匿されているが資産家の息子である主人公の自宅では学園のマドンナが少年の専属メイドをしてくれている」という設定のお話である。ただし前作と大きく異なる点として、今回はヒロインがふたりいる。前作ははっきり言って駄作だったが、今回は果たしてどうだったか。
 これがすごくよかったのである。
 そして今作を読んだことで、前作のなにがあんなにダメだったのか、その答えがはっきりと分かった。
 それはヒロインがひとりしかいなかったからだ。
 多ければ多いほどいい、とは言わない。でもやっぱり単独ヒロインはあり得ない。二次元ドリーム文庫の読者は、純愛の恋愛小説を読みたいのではない。女性器の穴に溜めた紅茶を飲む話が純愛かという議論はさて置くとして、主人公がひとりの女の子しか相手にしないという意味での純愛ものは、やはりどうしたって弱いと思う。なによりドリーム性が低い。現実では実現がほぼ不可能な、ドリーミーな世界に浸りたくてこちらは読んでいるのだから、女の子は必ず複数人であるべきなのだ。必ず、である。強い言葉で断言する。必ずそうであるべきなのだ。そうでなければ意味がないのだ。
 著者自身、それについて確信した部分があったのか、作中にはそれに関する記述がしっかりとある。主人公の少年は、ふたりのメイドと関係を持ったあと、そのことに対して煩悶する。そして少年のその苦悩を悟ったメイドは、彼の入っている風呂にふたりで突撃する。

 ふたりとも前のめりになり、片や挑発するように、片や懇願するように、ご主人様を見詰めてくる。中毒性の色香がバスルームに立ち込め、のぼせずともくらっとする。
 このまま年上のお姉さんたちに翻弄されてみたい。
「えぇっと、だ、だけど……」
 しかし即断できなかった。さっきも悩んでいた罪悪感が本能の出鼻を挫く。お湯の中に身体を隠し、一成はメイドたちに初めて、まともに意見した。
「だめだよ、今更こんなこと言えないのは、わかってるけど……スイ姉も紅亞も、ふたりともエッチの相手にしちゃうなんて、その……よくないこと、だと思うし」
 にもかかわらず、翠はオッパイでじりじりと迫ってくる。
「ナル坊のくせに言うようになったじゃない。だ、け、ど……あたしと紅亞さんのどちらか、なぁんて、選べないでしょ?」
 年下の男の子の考えそうなことなどお見通しとばかりに、意地の悪さと包容力の深さを併せ持った顔つきで微笑む。
 彼女の言う通りであって反論できない。優柔不断だからこそ決めあぐねているのだ。
 翠と同等に手放すことなど考えられない、もうひとりのメイドが、柔らかな笑みを浮かべる。まなざしは真剣な愛情に満ちていた。
「それはご主人さまがお優しい証拠ですわ。ご主人さまのような方にお仕えできて、わたくし、とっても幸せなんですよ? ですから、今日はご奉仕を……」
 ただでさえ少年は押しに弱いのに、二対一で迫られては、勝てるはずがない。
「でっ、でも……あうぅ」

 このあと少年はふたりがかりでパイズリフェラされる。その乍中に翠は言う。

「ご主人サマ、どお? メイドさんがふたりいないと、んぁはっ、こんなふうに、挟んであげられないんだから」

 ちなみにだが、この物語において、このふたりのメイドに互いに対する対抗心は一切見受けられない。学園では生徒会長と副会長を務めるふたりは、どこまでも協力して、ひたすら少年を奉仕する。そこがまたいい。主人公とふたりのヒロインという3名の間に流れる空気は、どこまでも甘美で優しい。普通の物語であれば、「もっと感情に起伏がないと!」などと注意されるかもしれないが、エロ小説にそんなものはいらない。なごやかで心地よく、そしてエロければ、あとは別になにも必要ないのだ。
 今作はそれがとても高い次元で表現されていた。名作だと思う。ちなみに僕の中で今作は、スク水メイド3部作と括っている3作品の、ひとつ目である。ここから神楽陽子は円熟期に入る、かと思ったら、しかしそう一筋縄にはいかないのだけれども。

2026年3月7日土曜日

ポルガの中学卒業式


 ポルガの中学の卒業式に、ファルマンとともに参加した。娘が中学校を卒業し、春から高校生になるということについての感慨は、別に中学校の卒業式なんぞに誘発されなくとも、日頃から自分のタイミングで抱いているので、あくまで卒業式というイベント、その体験報告を記そうと思う。
 そもそも参加するにあたり、僕は中学の卒業式にふさわしい衣装を持っているのかという不安があり、不安がありつつ、確認したのは本番前夜のことだったのだけど、なんだかんだでそれっぽい色のスーツがあったのでことなきを得た。それにしてもスーツ。入学式には参加していないので、スーツを着たのは、今の会社の面接に行ったとき以来だろうか、などと思ったが、実は先週三回忌を行なっていたファルマンの祖母の葬式のときに着ているな、とこの日記を書いている今、思い出した。とにかくそのくらい着ていない。着ないでいられる日々が尊い。そんな境遇なので、着るとどうしてもコスプレのようになる。ネクタイを締めながら、「今日もゼネコンのお偉方と接待だぜ……」とつぶやいてみた。僕の、すさまじく貧困な、スーツを着ている人のイメージ。ゼネコンが具体的になにをする人たちなのかはよく知らない。たぶん談合とかをするんだと思う。そしてド金髪のボリューミーなマッシュルームなのである。我ながらすさまじい違和感であった。
 学校へは、ファルマンとふたりで車で行った。ポルガは「学校の近くの家の友達に髪をやってもらうから自転車で行く」と言ってひとりで行ってしまった。そういうものなのか。こういうときって、校門前の「卒業式」の立て看板の前で写真を撮ったりするものじゃないのか。次にポルガを目にしたのは、会場となる体育館に入って席に座り、きちんと式が始まって、卒業生が拍手とともに入場してくる、その瞬間だった。少し変な歩き方で現れたポルガの髪は、なんかかわいらしく編み込まれていた。ファルマンにはドライヤーさえさせないのに、友達にはめちゃくちゃ編み込ませるんやん、と思った。
 式は、まあ式だった。校長先生の話がきちんと長く、退屈で、つらいなあと思いながら睡魔と闘ったのだけど、でもこういう思いって本当に久々だな、とも思ったので、いまの暮しはまあまあ快適ということなのかもしれないな、と変な再認識をすることができた。同じく送辞と答辞もなんだかひどかった。別に奇を衒ったことを言えと言っているわけではない。そんなものに付き合わされたらたまったもんじゃない。内容は、今日の各人のそれがたぶんそうであったように、対話型生成AIに考えてもらったんだろう、当たり障りのないものでいいのだ。しかしとにかくもっと短くしてくれよ、と思った。あるいは文面が表示されるリンクページへ飛ぶ二次元バーコードを提示してくれればそれでいいよ、とも思った。歌は、校歌ともう1曲、あまり聴きつけない歌があって、男子と女子のパートに分かれ、交互に唄い、やがて合一する感じが、「ちんぽ唱歌」を連想させて笑いそうになった。思わずファルマンに「「ちんぽ唱歌」みたいだね」と話しかけそうになったが、パイプ椅子の座席間は狭く、周囲の親に聞こえてしまうかもしれないと思って止した。さらに言えば、目元をハンカチで押さえている人もちらほらいたので、「ちんぽ唱歌」などと口に出していいはずがなかった。しかしいったい、あの式のどこに泣き所があったのだろう。僕の姉ならこう言っていると思う。「あなたはなにかに感動して泣いているんじゃなく、ただ泣こうとして泣いているのだ」と。僕は多様性の時代だから決してそんなことは思わないけど、姉ならそう言うに違いないと思う。
 式を終えたあとは、各クラスに戻って最後のホームルームという段取りで、親も担任と生徒(わが子)によるそのさまを眺め、そしてやはり泣いたりするものらしかったが、もう昼も近かったので、まあいいか、という話になって、帰ることにした。苦労して残ったところで、ポルガがわれわれと並んで写真に映るとは思えず、そもそもあいつは自転車で来ているのだから終わったら勝手に帰ってくるだろう、ということで夫婦の意見がまとまったのだった。そんなわけで、子どもとは本当に絡まずじまいだった卒業式であった。おかしいな。こんなことあるかな。まあ今日に限っては写真撮影用に3年生がスマホを学校に持ってくることは黙認(あくまで「許可」ではなく「黙認」だそう)とのことで、ポルガも持っていったので、子どもたちは親に撮ってもらわずとも、自分たちでいくらでも撮り、共有しているんだろう。「卒業式写真」はもうそれでいいんだな。
 しばらくしてからポルガは帰宅した。卒業証書とともに、家の中のなんでもない場所で写真を撮った。「チラ見せじゃなくてちゃんと見せてよー」と声を掛けるのも忘れなかった。たぶんそういうことを言うから、中学生は親をウザいと思うに違いないな。

2026年3月6日金曜日

とうとう喋りはじめた水着


 作る前から、これはすごいことになるんじゃないかという予感はあったのだが、完成させてみたらやっぱりすごかった。
 だって、これだぜ?


 もともとがアフリカンプリントの派手な柄なのだが、柄取りが我ながらすごい。よくもまあ、と思う。
 だって、これだぜ?


 ぱぱぼとるの、てっぺんの部分に、この円のデザインの中心を据えて、左右で柄合わせをピタリと決めたら、たぶんすごいことになるぞ、という確信があった。果たしてだった。
 「マジンガーZ」に出てくる女性型ロボットで、アフロダイAというのがいるだろう。あれの有名な武器で、おっぱいミサイルというのがある。乳房の部分が、大昔のコイルで形を作っていたブラジャーのように円錐状になっていて、そこに装填されたミサイルが、発射されるのである。この水着を見て、なんとなくあれを思い出した。そう言えばアフロダイAはおっぱいからミサイルを出すのだから、そのアンサーソングとして、マジンガーZは手が飛び出すロケットパンチなどではなく、きちんとここが飛び出すべきだったのだと気づいた。思えばまりもっこりはきちんとそれをやっている。まりもっこりの女ver.は、乳房がもっこりしているのだ。あれはとても理に適った造形であると思う。
 そして、ぱぱぼとるのその部分にばかり目が行きがちだが、これ、よく見ると、ちょっと顔みたいに見えませんか。中央のそれが(立体的な)鼻で、目もあれば、口もある。すごい! マジですごい! とてつもないものを作ってしまったかもしれない。
 しかしあまりの衝撃作ゆえに、なかなか穿いてプールに繰り出す勇気が湧かない。自制心が働いてしまう。それでもこいつ自身は「穿け!」と強く求めてくる。う、うるさい! 俺の股間で勝手に喋るんじゃない! そ、そんなに突き出るな! いかんせん、突き出しすぎだろ! 仕方ないけど! 収まらないのだから仕方ないけども! 俺のカイロス3号機は発射成功だけども!

2026年3月5日木曜日

フェーズとプレース ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 2009年7月。3月に結婚式を済ませた、25歳と26歳の、新婚夫婦である。

 短めの労働を終えたあと、最寄駅まで帰ってきてファルマンと合流した。正午から美容院で縮毛矯正をやってもらっていたファルマンが、こちらがちょっと待ってようやく終わる。4時間もよくやるものだ。仕上がりは「ほほう」という感じ。縮毛矯正直後っていつも「ほほう」という感じになる。
 帰宅して、ふたりともお腹がぺこぺこだったので、半端な時間だが冷やし中華を作って食べる。ビールが冷やしてなかったので飲めなかったのが残念だったが、麺はおいしかった。
 食べたあとちょっと昼寝をして、起きてから都議選の投票に行く。
 直前まであんまり行く気がなかったのだけど、起きたら頭がちょっともったりしている感じがあったので、じゃあ散歩ついでにせっかくだから行くか、となる。
 家から5分ほどの場所にある小学校が会場だった。投票をつつがなく終えて帰る。
(「KUCHIBASHI DIARY」 2009年7月12日)

 子どもがいなかった当時は、ファルマンはまだ縮毛矯正とかやっていたのだ。隔世である。ちょうど昨日、ファルマンと子どもたちはショッピングモールに出かけ、子どもたちはドラえもんの映画を鑑賞し、その間にファルマンはモール内にある簡易な理容院で髪をちゃちゃっと整えてもらって帰ってきた。そして近々白髪染めをする予定らしい。
 フェーズというのは、こうも変化するものか。そして縮毛矯正をするとかしないとか、そういう次元の話以前に、いまのファルマンは、もう美容院という空間に4時間い続けることが、精神的にできないだろうとも思う。ファルマンは出産後から家で働くようになって、本当に外の世界が苦手になった。もうその印象が長いので、ずっとそういう人だったような気がしていたが、OLだった当時は縮毛矯正をする意欲があったし、そのためならば美容院に4時間い続けることもできたのだ。
 そしてフェーズも違うが、プレースもまた大きく異なる。都議選! そうか、かつて我々は都民として、都議選の投票に行ったことがあったのか! 都議選なんぞ、いったい誰に投票したのだろう。都議会のなにを知っていたというのだろう。ちなみにだが、2009年当時の東京都知事は、石原慎太郎であった。石原慎太郎! 名前を聞いただけで、ぶわっと昭和の香りが立ち込める。しかし石原慎太郎は2012年まで都知事だったそうなので、ポルガが練馬で生まれた際の首長は石原慎太郎だったのだ。令和の申し子のような顔をしているが、お前だってまだまだ昭和の、大橋巨泉とか、山城新伍とか、そういうものの気配が残っている時代に生まれたんじゃないか。あまり大きな顔をするもんじゃないよ、と思った。
 それにしたって25歳。17個下。現在のポルガが15歳。その10個上。なんかおかしい。なんか捻じ曲がってないか。俺、30代あったっけ? 30代の日記、ちゃんと10年分、あるのかな。おもひでぶぉろろぉぉん、これから愉しみだな。

2026年3月4日水曜日

Sunoによる「ちんぽ唱歌 冬」


 「秋」を投稿したのが1月31日のことで、すっかり間が空いた。なぜか。終わらせてしまうのが淋しかったからだ。それくらい愉しかったのだ。
 でももう現実の冬も終わるので、さすがにそろそろ完結させようと思い、作った。
 秋に較べて、おもしろさという意味ではだいぶ下がる。まあそういうもんだと思う。期待を高めて高めて、引っ張って引っ張って、最後の最後に満を持して現れたものが、こちらの想像を上回ることなんてそうそうない。でも逆にそれでいいんだと思う。最後はちょっと侘しい気持ちになるくらいでちょうどいい。
 歌詞はこちらである。


一 こたつに入り 暖まり
  逆にアイスを 食べるなり
  そんな気持ちで 逆ちんぽ
  表と裏と 逆ちんぽ

二 サンタちんぽが 外に出し
  女体を 白く染めるなり
  これがホントの 白聖夜
  メリーホワイトクリトリス

三 ミニスカサンタ 捕まえて
  僕だけ毎日 クリスマス
  そうだったなら いいのにな
  そうだったなら 勃起する

四 をとめかじかむ 指先を
  これを握って やり過ごせ
  その代わりこの 指先を
  お前の膣に 入れてごせ

五 ベリーコールド ヘルプミー
  ヴィトイーンレッグス ディスペニス
  ホットルックス ユアハンド
  エーエスエーピー ラッピング

六 粛々として 大晦日
  響き渡るは 除夜の鐘
  煩悩の数 百八つ
  そのたび腰を 振るうなり

七 年の最後に 一年を
  思い返して みたならば
  すべての場面 ちんぽなり
  そうか ちんぽは常にある

八 元日の夜 姫はじめ
  おせち食みつつ 五回戦
  子孫繁栄 正しいね
  おせちに飽きたら カレーもね

九 バレンタインの お返しを
  あげるつもりが ホワイトデー
  これがホントの ホワイトデー
  自分も期待 してたんちゃう?

十 日々の研鑽 怠らず
  シーズン丸ごと 金冷法
  積雪の下 冬ちんぽ
  いつか芽を出す 時を待つ


 爆発的なおもしろさこそないが、それはそれとして、Sunoやっぱりすごいな、と思ったのは、聴いてもらえば分かるとおり、春夏秋冬と来て、完結編の冬において初めて、指示の歌詞で2度書いているわけでは決してないのに、最後のフレーズ『いつか芽を出す 時を待つ』を、勝手に繰り返し、なんとなく大団円みたいな感じに仕立てたのである。これは本当にすごいと思った。
 あまりにもおもしろかったので、29歳の僕の向こうを張って、13年越しに、42歳になった僕が「ちんぽ唱歌2」を新たに作詞してみてはどうかとも考えたが、たぶんそれこそ期待外れというか、それどころか、パピロウはもうおじさんになってぜんぜんおもしろいことを言えなくなったんだな、みたいなことになったら立ち直れないので、手を出さないことにした。
 というわけで「ちんぽ唱歌」はこれでおしまい。「ちんぽ唱歌」以外で、なにかできたらやりたいな、とは思う。

2026年3月3日火曜日

拝啓25の君へ


 17年前の自分の日記の絞り汁の養分で生きている、と昨日書いたけれど、実は「おもひでぶぉろろぉぉん」をそんなにやっていない。本当にずっと2009年にいる。25歳の僕が、いつまでも26歳にならない。先週末、ファルマンの上の妹の一家が、こっちで車を買って、その受け取りのために慌ただしく帰省していて、少しだけ邂逅したのだけど、その娘の下のほう、つまり幼児のほうは、GWのあたりが誕生日なので、「次に何歳になるんだっけ?」と義妹に訊ねたら、「4歳」とのことで、早いなあ、とも思ったし、若いなあ、とも思ったが、3歳児が順調に年を重ねるのに対し(3歳児以外も重ねるが)、25歳の僕は本当に年を重ねない。もはや永遠の25歳だ。永遠になるのだったら、25歳でなく、別の歳のほうがよかったような気もするし、その一方で、たしかに25歳こそ永遠に残すにふさわしい年齢だな、とも思う。
 別にもったいぶっているわけではなく、早く26歳の僕にも出会いたいのだが、なかなか作業は進まない。この理由はなにかと考えて、それは過去の日記を読んでいて、センサーに少しでも引っ掛かった部分は、「おもひでぶぉろろぉぉん特設サイト ~フレーズで振り返る20年の歩み~」にコピペする、という作業があるせいだと気づいた。これがあるがために、すきま時間に気軽にスマホで読み進めるということができないのだ。なので撤廃ではないけれど、とりあえずこの作業のことは放り投げ、これからは読み進めることに注力しようと思った。読んで、心に残った部分、語りたくなった事柄は、これまでのように「おもひでぶぉろろぉぉん」として思いの丈を綴ればいい。そうすることにする。
 なのでこれからは「おもひでぶぉろろぉぉん」の割合が増えていくと思うし、26歳の僕にもすぐに会えると思う。26歳の僕は、25歳の僕よりも、少しだけ大人だと思う。意外とね。

2026年3月2日月曜日

ブロガーやねんな


 始める始める詐欺のInstagramを、なぜ実際に始めないのかと言えば、なかなか勝算が見えないからで、ファルマンにそれを言うと、「インスタは勝算とかじゃないから」と窘められるのだけど、しかし勝算の見えないものを、勝算のことなど意識しないまま、延々と垂れ流すって、いったいどういう思考なのだろうか。ましてや、なんかストーリー? とか言うんですよね? なんか時間が経ったら消えるやつとかあるらしいじゃないですか。なんですか、それ。幽玄すぎません? いや、人なんて結局は幽玄なものですよ? もとい人に限らず、言ってしまえばこの世界のなにもかも、それどころかこの世界そのものだって、幽玄なものですよ。目の前の出来事はその一瞬にしか存在しないし、口に出した言葉はその瞬間だけ空気を震わせたあと、なにも残らない。そう考えれば投稿したものが短期間で消え去るストーリーこそ、摂理としては正しいのかもしれないとも思う。だけど文字や写真って、そんな摂理を超克するために発明されたものじゃなかったのか。こちとら、現実の年がまた1年経過し、もはや17年前となった、2009年の自分の日記を読み、その絞り汁の養分で生きているのだ。消えてしまったら困る。幽玄なる世界に生きる、幽玄なる僕の、しかしたしかな記録だ。だからウェブのログなのだ。
 じゃあお前は黙ってブログだけやってろよという話になってくるのだが、Instagramの活況さ、打てば響く感じを伝え聞くだに、俺もそっち側を垣間見てえよ、という思いが募り、そしてこうやって悶々としている。
 Instagramの前回の挑戦では、当時はショーツばかりをひたすら作っていた時期だったので、そのショーツをジョニファーに穿かせたものを、jonifer_robin名義で淡々とアップしていた。今回やろうとしているのは、結局その水着ver.ということになりそうで、しかしそれだとあまりにも芸がないから、Instagramは複数アカウントが取得できるとのことなので、作った水着の写真をNOBITATTLE名義で淡々とアップし、それをjonifer_robinがフォローし、そして前に対話型生成AIに作ってもらった画像をこのブログにも載せたが、そちらにはジョニファー(あの眼鏡の青年)の、NOBITATTLE水着の着用写真を淡々とアップする、という試みを企図している。企図しているが、勝算が見えないので、静止している。そして結局、Instagramがなかなか始めらんないよ~、というブログの記事ばかりを書いている。

2026年3月1日日曜日

沼泳ぎ


 プールで泳ぐ。2ヶ月ぶりである。気持ちがよかった。16時過ぎくらいに行ったので、まだ明るく、念願だった「3月の陽射しの中で泳ぐ」を、初日に達成したのだった。休日で体力があったこともあり、1km以上泳いでしまう。本当はもっと泳いでもいいくらいの気持ちだったが、脚がつりそうな気配が出てきていたので、仕方なく引き上げた。もちろん会員にも復帰したので、またこれから愉しいプールライフだ。嬉しいなあ。春だなあ。
 2ヶ月ぶりのプールだったので、年末年始の休みの中で完成させた極北ボックス水着を、ようやく初めてプールに下ろせたのだった。まあ実際、穿き心地としては、シュレディンガー水着とそんなに変わらなかったりもするのだが、そうは言っても追求しただけあって、こちらのほうが精神的に安らかだ。シュレディンガーは実質ビキニなので、ちょっと緊張感があった。
 そんな水着に関してなのだが、今週末はなんだかすごかった。3枚、3枚、10枚の、合計16枚が売れたのである。マジなのだ。NOBITATTLE、マジで売れはじめたかもしれない。ちなみに買ってくれた3人のうち、ふたりはリピーターであり、このリピーターが追加で買ってくれるというのが、つまりは価値を認めてもらったということになるわけで、本当に嬉しい気持ちになる。買う点数がそれぞれ多いのは、柄のバリエーションをたくさん出しているからに違いないが、それはあくまで自分のための行為であったわけで、最低50cmからしか買えない水着生地の、自分のものだけでは余ってしまう残りの生地で作ったものが売れて、お金になって、そしてまた新しい生地が買えるのだから、我ながらとてもいい仕組みだなと思う。
 この2ヶ月で新しく作ったものを中心に、一軍の、穿いて泳ぐ可能性のある水着だけを入れた袋を、車に載せておいて、その日の気分で選ぶ、ということをするのだが、その袋には水着が30枚以上入っている。ちなみに「swimming pooling」の最後の記事で報告したとおり、2025年の水泳の回数は69回であった。じゃあもう現時点で、この中の水着は、1年間で2度程度しか穿かれ得ないということなるし、ましてや新しい水着は今後もどんどん製作されるので、本当に穿くほうが追いつかない、稀勢の里はもちろん照ノ富士にも追いつかない、ということになる。本当にひどい、若者がいちばん白けるタイプのオヤジギャグだな。しかし追いつかなくてもいいのだ。水着って、あればあるほどいい。あればあるほど愉しさが増す。本当だ。今回10枚買ってくれた人は、前回も10枚買ってくれた人だ。本当にそうなんだよ。沼というか、中毒なんだよ。

2026年2月28日土曜日

たけくらべ


 2月も今日でおしまいということで、ウチももう大人にならんとあかんねんな、明日からは奉公に行くんやさかいにな、と思い、年末から剃らずに育てていた体毛を、一気に剃った。
 この2ヶ月間、本当に久々に、体毛を剃らないということをして、もうすっかり在りし日のことなど忘れてしまっていたので、どれほどの毛が生えるのかと愉しみにしていたのだが(このブログでも何度も言及した)、前回に報告した通り、1メートル先にある鏡に映った自分の姿は、ぜんぜんそこまでじゃなく、2メートル離れた人から見たら生えていないも同然という程度の生え方で、かなり拍子抜けしたのだった。
 それでも自分の理念として剃らないわけにはいかないので剃ったわけだが、見た目はそれほど生えている印象にならなかったわりに、剃ろうとしたらそれはそれで、カミソリの刃にはすぐに毛が溜まる感じで、わりと難儀した。毛というのはほとほと曲者というか、他者にとっての存在感と、自己にとっての存在感が、あまりにもかけ離れているものだな、と思った。
 もっともそういう自他による認識の錯誤というのは、人それぞれ、その人が特に気にする部分において、往々にして発生するものなのだろうとも思う。ファルマンは一重まぶたであるということに猛烈なコンプレックスを持って生きていて、人を見たとき、すぐに「一重だ」「二重だ」と言う。そして勝手にこの話を展開させたあと、必ずこうも言う。「ちなみに私は実は一重ではなく奥二重なのだ」と。それに対し、僕はもはや「ふうん」と相槌を打つこともない。もはや三重と言ってもいいほど天然のくっきり二重である僕は、人のまぶたを気にしたりしない。そういうものなのだと思う。
 ともかく、不要な部分の毛がなくなって、個人的にはとてもすっきりした。やっぱりこのほうがいい。ウチはもう、昨日までの無邪気でおきゃんなウチとは違うんやさかいにな……。

2026年2月27日金曜日

MAXとは


 MAXのファンを自認している。他認はされない。真正面からMAXのことが大好きというわけではないから、なかなか認めてもらえない。でもMAXだ。MAXを真正面から大好きな人がいるはずがないだろう。その前提がまずあって、そしてファンを自認している。
 たとえばサブスクの音楽サービスに、「お気に入りの曲」というプレイリストがある。聴いていて、いいなと思った曲は、ボタンをひとつ押せば、勝手にここに入れてくれる。この中にMAXの楽曲ももちろん入っている。だけど再生したことはない。「お気に入りの曲」プレイリストをランダム再生していると、なにしろお気に入りの曲ばかりが流れるので心地いいのだが、たまにMAXの曲がかかりはじめると、すぐに飛ばす。なぜなら、僕は別にMAXの曲なんか聴きたくないのだ。ただMAXがお気に入りの中にいてほしい。だから入れている。MAXの正しい味わい方というのは、つまりそういうことだと思う。
 そんな僕の最新のMAXファン活動は、対話型生成AIに頼んで「MAXクイズ」を出してもらう、というものだ。

 第1問 NANA はブログで、自身の性格について「実は○○体質」と語ったことがある。

   A. 超心配性
   B. 人見知り
   C. 朝が弱い
   D. 泣き虫

 みたいなクイズ。こういうのを延々と出してもらう。
 ただし僕は、自分のMAX知識を試そうとしているわけではないし、ましてや増やそうなどとはもちろん考えていない。(こちらが求めるものだから)次々に繰り出されるMAXクイズに、僕はいちども回答したことはないし、正解を求めたこともない。
 MAXって、そういうことじゃないんだ。MAXって、好きになればなるほど、MAXにぜんぜん興味がなくなる。だから答えなんか知らなくていい。答える気がまるで起きないMAXクイズが、ひたすら積み重なっていけば、それでいい。それがいい。その感じこそが、MAXの魅力の真骨頂だと思う。
 MAXってもしかしたら、道なのかもしれない。千利休の言葉に、「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点ててのむばかりなる事と知るべし」というのがある。MAXもそう。MAXも、ただ湯をわかして茶を点てて飲むだけのことなんだよ。たぶん千利休がいま生きていたら、MAXのファンだったんじゃないかな、と思う。その場合、千利休じゃなくて、最大利休になっていたかもしれないね。しれなくないね。