12冊目。2011年5月刊行。通し番号は189。
あらすじはこちら。
巫女として“神前の舞”を踊ることになった幼馴染み・綾とセシルの練習を手伝うことになった少年・小太郎。そして、対抗心に燃える二人は巫女袴+スクール水着という大胆なコスで過激なアプローチを始めるが!? スク水の幼馴染みが、紺なエッチなはずがない!!
看護婦にバニーガール、魔法少女にウエイトレスと、これまでさまざまな衣装を繰り出してきた神楽陽子による、タイトル通りのスクール水着巫女という趣向の物語である。スクール水着巫女だから「紺な巫女」なのだが、そんな作者の趣味全開の不自然な設定はあり得ない、ついていけないと一笑に付す前に、きちんと説明を聞いてほしい。
ふたりの少女のうちのひとり、綾が神社の娘なのだが、この神社はアメノウズメを信仰し、夏の祭りで巫女がストリップを披露するのが習わしだったという。しかし男の裸祭りでさえ自重される現代社会において、少女巫女によるストリップなど催せるはずがなく、仕方なく水着着用ということになった。そうなったとき、じゃあ水着はどんな水着であるべきかと言えば、それはやっぱりスクール水着ということになると思う。三角ビキニではないし、競泳水着でもないだろう。もちろんフィットネス水着でないことは言うまでもない。どこまでも自然な帰結として、スクール水着。かくしてここに、巫女服の下は紺スク水という状態が爆誕する。なるほど、と思う。この状況の誂えに、強引な部分はひとつもない。本当は裸だったのだ。しかしそれはあんまりだから、ということでスク水着用になったのだ。ここに作者の性癖による恣意なんか微塵も存在しない。あるのは少女を守るための優しさのみである。神楽陽子は決して女の子を悲しませない。そこがいい。
物語は、祭り本番で行なわれる神前の舞いを、ふたりの巫女が泊まり込みで練習するのを、主人公の少年がサポートするという、その期間を描くものなのだが、だいぶ伝統的な儀式のわりに、指導役の大人の存在などは一切なく、それどころかほとんど舞いの練習風景の描写もない。それでは登場人物たちはなにをやっているかと言えば、もちろんずっとエロいことをしている。一緒に温泉に入ったり、神社の大事なお札が濡れたスクール水着に張り付いてしまったのを破れないようにそっと剝がそうとして愛撫してしまったり、終始そんなことをしている。そんな中、作中でほぼ唯一と言っていい、舞いの練習と言えなくもないシーンはこちらである。
「いいよ、ふたりとも、くっ……はあ、次は皮をムイムイして」
続いて皮を剥き降ろしてもらう。しかし綾もセシルも両腕を背中で硬く固定されているため、手を使うことは許されなかった。
かといって、唾液で汚れた唇で、包皮だけを器用に摘むのは難しい。
ふたりは横笛を咥えるようにして、サオに優しく歯を立てた。
「ンぅふぐ、さきっちょ、むくの?」
「べとべとだ……えぁ、すべってひまう」
そして嚙んだ部分を下へとスライドさせようとするのだが、右と左がばらばらに動くせいで上手に剥けない。
皮を斜めに剥いただけでは、肉厚の笠が引っ張り戻してしまう。
「綾殿、私に合わせてくれ。っぷあ、こうやっへ、ンぐ、引きずるみたいに」
「そんなこと言われたって……に、ニオイだってすごいし、んぅふ?」
タイミングがぴたりと合わないのは、セシルの唇は吸い付きがよいのに、綾の唇はすぐに息継ぎを挟むからである。
その間もペニスは膨張し、「幹太り」の形になっていた。先端の薄皮が剥けないことにはエラを全開にできず、煩悶させられる。
「ちゃんと一緒に、はあ、息を合わせて……神前の舞いと同じだよ」
少年のアドバイスに従い、綾とセシルがアイコンタクトを取って頷きあう。
今度こそ唇は右も左も同時に剥き降ろし、雁首の黒ずんだ赤色が露出した。亀頭が水を得たように膨らみ、ぼってりと腫れあがる。これで勃起は完了だ。
小太郎を巡って敵対ばかりし、こんなことで神前の舞いを踊れるのかと危ぶまれていたふたりだったが、小太郎の包皮を口だけで剥くという共同作業によって、初めて息が合った、これは感動のシーンである。こんな種類の感動もこの世にはあるのだ。ちなみになぜ少女たちの両腕は使えなかったかと言えば、小太郎が神社の注連縄で亀甲縛りのようにしていたからに他ならない。ふたりの少女はこのあと肛虐され、綾は射精だったからまだよかったが、そのあとに挿入されたセシルに至っては(小太郎のちんこがバカになっていたため)腸内に向けて放尿されてしまう。でもどうか安心してほしい。和姦なので、女の子たちはそれでとてもハッピーなのだ。もういちど言う。神楽陽子は決して女の子を悲しませないのである。
練習がそんなものなので、この物語の根幹であるはずの神前の舞いがどういう顛末に終わったかの描写もきわめて簡素である。
神前の舞いはそこそこの好評を博した。
なんと以上である。一行である。すばらしい潔さ。たしかに神前の舞いは、3人がこのような状況に置かれることとなる理由として物語の根幹ではあるのだが、しかしそれはエロ小説としての根幹かと言えばそんなことはない。はっきり言ってどうでもいいのである。エピローグは、神前の舞いの本番がどうなったかについてこう触れたあと、祭りの最後に行なわれる打ち上げ花火を本殿の裏で3人で眺めながら、少年がふたりの少女からダブルパイズリフェラ奉仕を受けている描写に、その文面のほとんどが費やされている。正しい。読者はそれを読むためにこの本を手に取っているのであり、神事なんかにはなんの興味もない。
そういう意味で、本作は神楽陽子の感覚の鋭さ、なにを描きなにを省くかのセンスの良さが存分に発揮された、良作だと思う。ちなみにこれは「スク水メイドがご奉仕します!」に続く、僕の中で勝手にそういうことにしている、スク水メイド3部作の2作目ということになるのだけど、よく考えるまでもなく、この物語の少女たちは巫女であって、実はぜんぜんメイドではない。ベスト10くらいの中で、ひとつだけ例外があるとかならまだ話は分かるが、メイド3部作と言っておきながらそのうちのひとつがメイドではないというのはなかなか豪胆な所業だな、と我ながら思う。