2026年5月23日土曜日

2009年から2024年、そして2200年へと ~おもひでぶぉろろぉぉん~


 つい先日、逆ゆっこ現象の話の際、男のちんこが女のおっぱい、ということを書いた。そのことはずっと書いている。長い間とにかく僕はそれをずっと唱え続けていると思っていたが、ちょうど「おもひでぶぉろろぉぉん」で読み返していた26歳の日記にこういう記述があったのだった。

 今年の初夏はちんこについてやけに考え、そしてぱたりと興味が収束したのだけど、その日々の中で携帯電話にメモをして、それ以来ずっと残っているというちんこに関する記述があり、もう秋になってしまって、ちんこについてことさらなにかを書こうという意欲もなくなってしまったので、いっそもう消してしまえと何度か操作をして、でも消したあとでやっぱりどうしても気になって、また同じ文面をメモするなんてことを繰り返していたのだけど、このままでは埒が明かないので、いっそ書いてしまうことにする。
 おっぱいはちんこである。
 これがそのメモの文面である。薄れゆく記憶と興味をたどって内容を思い出すと、たぶんちんこもおっぱいもそこから分泌されるものがミルクと称される共通点、そこからの発想だった。
 おっぱいって人類学とかだと、本来メスのオスに対する性的誘惑の効果を担っていた尻、これが二足歩行になった結果としてオスの顔の正面に来なくなって効果が望めなくなってしまったため、その尻の代替として(ポッキーの代わりのクッキーみたいに)おっぱいを膨らませることにした、と説明されるわけだけど、これってけっこう嘘くさい説だと思う。これより多少でも信憑性のある説が提唱されたら簡単に否定されてしまう程度の説だと思う(もっともこの前読んだ本に書いてあったのだけど、女性のおっぱいが赤ん坊への授乳のために存在するのなら、おっぱいはもっと哺乳瓶に似た「吸いやすい形」になっていなければ説明がつかず、実際にはあんな赤ん坊の鼻を圧迫してしまう丸い形になっているのは、その実用性を失ってでも男性に対して性的アピールを高めるためであり、だからボインは赤ちゃんのためにあるんやなくて、お父ちゃんのためにあるんやで、っていう話は大いに頷ける。でもこれはおっぱいが性的なものだということを証明している話であって、それが尻の代替であるという理屈にはぜんぜんならない)。
 そこで僕が提唱したいのが、おっぱい=ちんこ仮説なのだ。
 ところで僕は百合と呼ばれるジャンルがまるで好きではないのだけど、これのなにがダメかと言えば、百合にはちんこが存在しない、これが大いにダメなのだ。くっつけるだけでは絶対に得られない、棒で肉を抉る感触、これが大自然を切り拓いて文明を創造してきた人間の本能に直結し、まあ暴力性と言ってしまえばそれまでなのだけど、しかしそれが人間本来の動物的な快感に結びつくことは否定のしようがない。たくましく隆起するちんこは力の象徴で、武器のモチーフや崇拝の対象にだって容易になってきた。それは歴史が証明している。
 だからつまり人間は男も女も関係なく、みんなちんこが好きなのだ。
 しかしちんこは好きだが、大抵の男は男のことが好きではない。僕ももちろんそのひとりだ。ちんこはいいが、しかし男なんてものは自分以外は極力視界に入れたくないと考えて生きている。
 そんなわけだから、純粋理性批判の主人公というのは往々にして女性的なのだと思う。純粋理性批判の主人公は見た目はまるで女の子のようで、女装させればおそろしく似合い、周囲から勘違いされ女子校に入学してしまったりする。それもこれも男なんて極力視界に入れたくない僕のような輩のための配慮である。女性的すぎる主人公は、もはや世界を彩る女性キャラクターのひとりだ。しかしその主人公にはちんこがある。これでちんこがなければ百合になってしまっておもしろくない。ちんこがあるから迫力がある。女性しかいないようなきれいな世界でありながらパワーを兼ね備えている。しかもそのちんこはその主人公の見た目からは想像もつかないくらい逞しくあったりする。純粋理性批判はこれだから尊いのである。
 それで、だから男子っていうのも結局、ちんこと戯れたい生きものなのだ。と言うか日常的に戯れて生きているのである。切っても切れぬ間柄、切っても切れぬ愛だから、という意味では、男子とちんこと結びつきは女子とちんこのそれをはるかに凌駕する。
 しかし常に思う存分いじることのできるちんこを必ずひとつ持っている男子だが、ひとつだけできないことがある。それは口淫である。これはどうしてもできないわけじゃないが、相当な熟練の技を要する。大抵の人はできない。僕ももちろんできない。
 それで他の男の体を利用する人もいる。これはこれで理屈である。でもやっぱり他の男の体なんて気持ち悪くて見られない。どうしたって触れ合うのは自分か、あるいは女子がいい。
 そこで登場するのが女性のおっぱいである。
 乳房は陰嚢の代替であり、乳首は亀頭の代替であると考えてみてはどうか。乳頭から出る母乳はもちろん精液の代替である。
 しかしおっぱいがちんこの代替なら、やはりおっぱいは哺乳瓶(この場合はそれは陰茎)のような形になっていなければいけないのではないか、という意見もあろう。それに対して上の、「乳房は陰嚢の代替」という捉え方は卓見であると思う。これは日々宇佐木学園で陰嚢に対する認識を高めていた僕だからこそ気付けた結論だろうと思う。陰茎よりも陰嚢のほうがよほど大事だ。だから女性のおっぱいは細長くなくて、丸いのだ。
 ……とまあ、多分こんなようなことを考えて、メモを残していたのだった。
 書けたので満足です。
(「KUCHIBASHI DIARY」 2009年9月25日)

 発想のルーツはまさにこのあたりの時期にあったようで、まるでファミリーヒストリーのような感動がある。さまざまな礎があって、この自分がいるんですね。
 なにぶん17年前なので、もちろん現在の考え方とは違う部分もある。たとえば、自分以外の男なんて極力視界に入れたくないという記述があるが、この気持ちは今はない。これは筋トレを始めたことが大きく作用していると思う。今は男の体も(きれいならば)好き。
 あと代替ということを言っていて、そもそもその考え方が、今とは異なる。この頃はまだ人類学とか進化論とか、そういう、大学生的なものが体にまとわりついていたようである。なにぶんまだ26歳である。今はそういうアプローチではなく、プールの更衣室で友達のちんこを触る少年を目にして、「逆ゆっこ現象!」と直感で叫ぶだけである。バカになったのか、先鋭化されたのか、自分ではよく分からない。
 ゆっこは更衣室であかりの胸を揉む際、乳房と乳首、どちらを主に攻めるかと言えば、それはやっぱり乳房だろうと思う。「どれどれ?」と、乳房の成長度合、すなわちおっぱいの発育を確かめるのだ。その際、揉みながら指先で乳首を刺激したりはしない。それはさすがに話が変わってくる。しかし上の話で言うと、乳房=陰嚢ということになり、ならば今回の男子更衣室に現れた逆ゆっこは、逆あかりの、陰嚢を触っていたかと言えば、それは果たしてどうなんだろう、と思う。僕もそこまでまじまじと見ていたわけではなく、「あいつ友人のちんこを触ったよ」とかろうじて認識できた程度なので、それが主に陰嚢だったのか、あるいは陰茎だったのかは定かではない。でも普通に考えて、こういうときに触るのは陰嚢ではなく陰茎なのではないか、と思う。ぶらぶらさせて遊ぶのは往々にして陰茎であろう。
 異議あり!
 検事の発言を許可します。
 弁護人は思い込みでものを言っています。陰嚢がやけにたぷたぷし、ぶらぶらするコンディションの時も存在します! そもそも男性器の本体は肉棒よりもむしろ金玉肉袋にあります! なのでここで逆ゆっこが触ったのも、そちらであるという可能性は否定できません!
 異議あり!
 弁護人の発言を許可します。
 検事の主張を否定します。なぜなら少年たちは遊泳を終えたあとだったからです。遊泳を終えたあとの陰嚢がたぷたぷしているはずはありません。当時は縮んだ陰茎がかろうじてぶらぶらする程度の状態だったと考えるべきで、逆ゆっこが触ったのも当然その部分であると捉えるべきです。違いますか。
 検事、異議はありますか?
 …………くそっ。
 弁護人、続けてください。
 そもそもゆっこの目的、胸を揉むことの大義名分はなんだったでしょうか。それはあかりの発育を確かめるためです。ならば逆ゆっこが逆あかりのちんこのどこを触るかは、火を見るよりも明らかです。成長もとい伸長がよしとされる部位、それは肉棒です。少年たちはいつの時代も、Seventeen Centimeterianを目指して生きるのです。もちろんなかなかそこまでたどり着けるものではありませんが。ただしここで大事になってくるのは、2009年のパピローが唱えた乳房=陰嚢理論、これが誤りであり、実際は乳房=陰茎が正しいのだとしても、一方の乳首=亀頭理論、これは正しいということであります。ゆっこがあかりの乳房を揉む際、乳首に重点は置かないにしても、どうしたって乳房全体に手を這わせようとしたら、意図せず中指が乳首に掛かることだって十分あり得るように、逆ゆっこが逆あかりの陰茎を触る際、そのとき根元・中腹・先端のどの部位を目がけるのかと言えば、それは陰茎の形状からして、どうしたって先端ということになるわけで、すなわちそれは亀頭ということになります。逆ゆっこは逆あかりの亀頭を触るのです。もういちど言います。逆ゆっこは逆あかりの亀頭を触るのです。逆あかりってなんですか。暗がりですか。
 さらに話を進めるならば、陰嚢は更衣室でゆっこ陣営が狙う対象ではないと考えた場合、ゆっこ陣営は更衣室という特殊な空間であかりのプライベートゾーンにいたずらをすることを目的とするわけだから、「水着で隠す部分がプライベートゾーン理論」の発展型として、「水着で隠す部分≒ゆっこ陣営が更衣室でいたずらする部分がプライベートゾーン理論」が提唱でき、だとすればゆっこ陣営の標的にならない陰嚢はプライベートゾーンではない可能性までもが浮上してくる。うすうすそんな気はしていた。陰嚢はたまたま(世界初のダジャレ)少しはみ出しているだけの、実は内性器であり、女性のヴァギナを掘削する凶暴性を持つ陰茎のような危険性および秘匿の必要性には該当しない。ましてやなにかを分泌する孔があるわけでもない。だから本当は、陰嚢の部分の水着の布地はなくてもいいのだ。肛門と同じく、そこはプライベートゾーンではないからだ。たぶん西暦2200年くらいの水着はそうなっている。昔はここも隠してたんだよ、と言って露出した陰嚢を持ち上げてみせる大人の言葉に、西暦2190年代生まれの少年少女はびっくりする。ウソだー! めちゃくちゃモサいじゃんよ! 昔の人たちはよくそんな恥ずかしい恰好で泳いでたもんだぜ! そんな平和な未来が訪れますように。この記事は、まさかの世界平和を願うオピニオンブログだったのだ。思想がいかつい!