2026年1月30日金曜日

自分と推し


 昨晩、僕の日記を読んだファルマン(最近は心を入れ替え、対話型生成AIとの会話やXを眺めたりする合間に夫の日記も読んだり読まなかったりしているらしい)がしみじみと、「あなたって、本当に自分のことが好きだよね……」と言ってきたので、少しハッとした。
 たしかに僕は僕のことが好きだけど、人なんてみんなそういうもんだろうと思うし、そこを僕はたまたまブログというものをやっているので、自分について語る場面が多く、それで顕在化しているだけの話ではないか、と思う。この話は、客観的見地から人間としての魅力度を数値化したとき、実際に僕という人間が、そんじょそこらの輩よりも突出しているせいで、少しややこしくなってしまうが、ここで言いたいのは、誰であれ、それぞれの自分における自分の愛しさというのは、みんな同じ100だろ、ということだ。究極の選択で、自分と他人を天秤にかけたら、結局は誰だって自分を選ぶに違いない。自分は常に最上に愛しいのだ。
 一方で僕には推しというものがない。本当にない。しかし推しがないからその分だけ自分への愛が強いかと言えば、そういうことでもないと思う。自分というのは特別枠で、推しがあったらその愛が分割されるとか、そういうものでは決してないはずだ。ファルマンは以前、「死ぬのが怖くなるときも、稲葉さんも死ぬんだって思ったら怖くなくなる」と言っていて、いろんな意味でおそろしい発言だなあと思ったのだけど、推しというのはそれほどの強い情念をもたらすものらしい。僕には以前、推しを人工的に発生させようと、自分はMAXの大ファンであると思い込もうとした時期があり、なので「推しは?」と訊かれたら対外的には「MAX」と答える所存でいつもいるのだが(ウケるに違いないし)、僕はMAXをメディアで目にすると、車のフロントガラスに止まっている羽虫が、車内側ではなく車外側にいたときのような喜びを感じる。推しは僕にそれくらいの幸福をもたらすし、その分の愛は注いでやってもいいかな、と思っている。ずっと自分の陰毛の話をしていたい。