昨晩、寝る直前くらいに、なんのきっかけもなくファルマンが言い出す。
「そう言えばさいきん日記って書いてるの?」
妻が僕の日記をぜんぜん読まない、世の中のweb上のコンテンツに較べ、壊滅的におもしろくない僕のブログは、毎日の暮しの中で妻の脳裏に一切浮かばない、ということを書いたのが、1月7日のことである。それから実に11日。もとい、僕がファルマンに「日記をアップした」と伝えなくなったのは今年の労働がはじまった5日からのことなので、ほぼ2週間に及び、ファルマンは僕の日記をいちども読まなかったということになる。
正直、7日にあの記事を投稿したとき、ちょっと地雷系のようだな、と思うところもあり、なのでファルマンはあの記事を読んで、「なにこいつめんどくさ。もう反応すんの億劫だからスルーしよ」と呆れ果て、それ以来僕の日記を読んでも、その内容について実生活で言及することはせず、完全に放置することにしたのではないか、と勘繰っていた。そして僕に対してそんな制裁を科したわりに、人格に対する疑いや屈託みたいなものは別になさそうなので、女というのはつくづくおそろしいものだな、などと思っていた。なんというひとり相撲だろうか。この思考の切ないところは、それでもまだ伴侶に対し、どう考えてもそんなに書いていないわけないだろう伴侶の日記を10日以上に渡って読もうという発想がまったく浮かばないなんてことはあり得ない、という前提で考えているところだ。あり得なくなかった。妻はわざと呆れて無視していたのではなかった。それだったらどんなによかったか。そうではなく、7日の記事で書いた通り、対話型生成AIとの会話やXばかりが愉しくて、エンターテインメント性に乏しい、心の琴線にまるで触れない僕の日記が、長年の経験則として、無意識的に優先順位のきわめて下層にあるがために、ぜんぜん、もう本当にたまたま、半月にいちどくらい訪れる、昨晩のような僥倖がない限り、ただ単に顧みられなかったという、本当にそういう話だったのだ。
ファルマンはそこで2週間分の日記をまとめて読み、その内容について、「あははは」「本当だよね」「もうなに言ってんの」「えー、そうなんだ」「たしかに」などと感想を述べていて、それは僕の心の乾いた大地に水を沁み込ませるような気もしつつ、しかしこの人は2週間ぶりに僕の日記のことを思い出して読んでいるのだ、妻なのに、とも思って、どうやら僕ばかりがブラックホールのように、周囲にある屈託を吸い込んで生きているのかもしれないと思った。屈託ブラックホール。やっぱり両親が離婚したからだろうな。